あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 山道を登る途中、ひなと慶一郎は言葉少なに歩いた。
 慣れない道に息が上がりながらも、ひなは胸の高鳴りを抑えられなかった。
 
(昔、嘉一さんや女将さんにも訊ねたことがあった。けれど……)

『青蓮草? 知らんなあ』
 
 そう言われて、話が終わってしまったのだ。
 まさか、関西では別の名前で呼ばれていたなんて、思いもしなかった。
 それに、青蓮草の花は咲いている期間が短く、しかも咲かないと特徴がほとんどない。
 育児と仕事に追われていたあの頃の自分には、とてもこの奥まで来る余裕もなかった──
 
 嘉一が立ち止まり、指をさした。

「このへんに、ぽつぽつ咲いとるはずやわ」

 言われて目を凝らすと、たしかに薄青色の可憐な花が、草むらの間にひっそりと顔を覗かせていた。

「……これ……」

 ひなは膝をついて、花をそっと指先でなぞった。

「間違いありません……青蓮草です」
「向こうにも咲いている」

 慶一郎が指した方向、まるで山の奥へと誘うように、青蓮草がいくつか咲いている。

「あんまり奥の方は、行ったことないなぁ」

 嘉一がつぶやいた先、山道は徐々に斜度を増し、岩がちの急斜面となっていた。根を張った木々が斜面を覆い、足場は決して良くない。湿気を含んだ苔のせいで、うっかりすれば滑りかねなかった。

「この先は足元が悪いです。私と慶一郎様だけで、少し見てきます」

 ひなが申し出ると、嘉一はすぐに頷いた。

「気ぃつけてな。ここで待っとるわ」

 そう言って、嘉一は木の根元に腰を下ろした。

 ひなと慶一郎は、岩を伝い、枝をよけながら慎重に歩を進めた。
 途中、小さな沢を渡り、湿った斜面に足を取られそうになる。ひなの手を慶一郎が支え、時折は逆に、彼が木の幹に手をかけながら息を整えた。

 幾度か立ち止まりながら進むうちに、木々の隙間からふわりと風が抜け、ほのかに冷たい空気が頬を撫でた。
 そして、木立の切れ間を抜けたその瞬間──ふたりの視界が、一気に開けた。

「……っ……」

 思わず、言葉を失った。
 そこには、一面に青蓮草が咲き誇っていた。

 斜面に広がる花々が、まるで水面のように風にそよぎ、陽の光を受けてかすかに揺れている。どこまでも続く青。その鮮やかさに目を見張る。
 静かで、涼やかで、まるで別世界のようだった。

「これだけの群生が……毎年、咲いていたんですね」
「気づかずにいたとは、信じられん……」

 慶一郎もまた、周囲を見渡しながら言った。
 遠くでは、時折鳥の声が聞こえるだけで、人の気配はまるでない。ふたりはただただ、その場に立ち尽くした。

「この山……たしか、嘉一さんの所有地だったな?」
「そうです。この辺り一帯はすべて……」
 
 ひなは振り向き答える。

「交渉して、買い取るか、許可を得て摘み取らせてもらおう。最初の数年はこのまま自然採取で賄って……並行して栽培研究を始めて……どうだろうか?」

 その言葉に、ひなは小さく頷いた。

「人件費と配送費はかかりますが、山道を整えればコストは抑えられます。最終的には、品種改良で栽培できるようになれば……」
 
 これだけあれば、あの塗り薬が量産できる。
 それは慶一郎だけでなく、きっと誰かの痛みも癒してくれるはずだ。
 ひなは掌で青蓮草を包み込むように見つめた。

「この花が、慶一郎様と早乙女製薬を救ってくれるかもしれません」

 慶一郎は、隣で花を見つめるひなにそっと手を伸ばし、肩に触れた。

「ひな」

 名を呼ばれ、ひなは慶一郎を見上げる。

「俺はこのことを母に伝え、婚約も破棄する。……だから、俺と一緒になってくれ」

 その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
 ひなは唇を震わせながら、しばし黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……はい」

 目を伏せたひなの頬を、そっと風が撫でた。
 青い花びらが一枚舞い上がり、ふたりの間をすり抜け──空へと昇っていった。

 

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