組長さんと年下彼女~今日から同棲始めます~
2.帰れない
細波鳴矢から逃げるようにして家へ帰り着いた芽生は、それでも何となく不安に駆られてすぐさま後ろ手に玄関の鍵を掛けた。
芽生の住まいはアパートやマンションなどではなく、庭付き平屋の一軒家だ。その言葉面だけだとすごく贅沢な感じに聞こえるが、実際はあちこちで立ち退きが進んでいるような、築五十年以上の昭和レトロなおんぼろ家屋。
今施錠したドアだって、斧を「えい!」と振り下ろせば、さしたる抵抗もなく木っ端微塵になってしまうような頼りない木製だ。そんな扉でも、一応外界と隔絶してくれる。そう思えただけで、芽生はホッと胸を撫でおろせた。
「怖かったぁー」
そして、何より気持ち悪かった。
なかなか整わない呼吸は、なにもダッシュで帰ってきた事ばかりが原因ではない。
安心したと同時、握られた手から鼻を刺すような細波の下品な香水の香りが漂ってきて、芽生は思わず眉根を寄せた。
いそいそと左手に見える出入り口を抜けて台所へ向かうと、いつもなら一プッシュのところを三プッシュもして、ハンドソープの泡をたっぷり手の上へ盛る。今愛用しているものは、手をこすり合わせなくてもポンプから直にふわふわの泡が出てくるのが嬉しい。
施設には基本ネットで蛇口へ吊るされたレモン型の黄色い石鹸しかなかったので、大人になって一人暮らしを始めた時、泡ハンドソープにいたく感動したのを覚えている。
芽生は、薬用の〝桃の香り〟と謳われた泡ハンドソープが特にお気に入りだった。
この家には洗面所なんて小洒落たものはついていないので、手洗いや歯磨きなどは全てキッチンの流しでしなければいけない。トイレだって今どき珍しい和式便所だし、風呂も昭和臭ぷんぷんのステンレス製の銀ギラな浴槽で、それを取り囲むのは冬とっても寒い玉石タイプのモザイクタイル張り。
その分3DKの広い庭付き物件にもかかわらず家賃が月三万円と破格なのだが、不便がないかと言われれば嘘になる。
そんななので、必然的に流し台付近にはキッチングッズだけでなく、洗面用品や手洗い石鹸なども並べてあった。
お気に入りのハンドソープで手を清めて、恐る恐る匂いを嗅ぐと、嫌な匂いは取れて優しい桃の香りになっていてホッとする。
それと同時、現金なもの。腹の虫がグゥーと鳴いた。
「お腹すいた……」
芽生は帰りにスーパーへ寄って、一人前の鍋焼きうどんセットを買って帰ろうと思っていたことを思い出して小さく吐息を落とした。
(細波さんのせいで買いそびれちゃった)
仕方なく何か作れやしないかと冷蔵庫を開けてみたのだけれど、牛乳とお茶、それからマヨネーズとケチャップしか入っていない冷蔵庫では、空腹を満たせそうにない。
(ラーメンとか買い置きしてあったら、こういうとき違うかな)
芽生は少しだけ考えて、細波と出会しそうな玄関からではなく、台所にあるお勝手口から裏口を抜けてコンビニへ走ろうかな? と思いついた。
スーパーまでは結構距離があるけれど、コンビニならすぐそこだ。
芽生はちょっとだけ迷って、屋内の電気をつけたまま出かけることにした。実は芽生、施設暮らしでずっと誰かがいる生活に慣れていたからか、灯りの点っていない自宅へ帰宅するのはちょっぴり苦手なのだ。
「行ってきます」
誰もいない部屋に向かってそうつぶやくと、芽生は財布とスマートフォン、それからお買い物袋だけを抱えてお勝手口からこっそり外へ抜け出した。
自宅を出てすぐ、先ほど見かけたド派手で悪趣味な金ピカセダンを見かけた芽生は、電柱の影に隠れてそれをやり過ごした。細波に家を教えた覚えはないが、この感じ。絶対に知られていると確信して、何だかすごく怖くなる。
あまり早く帰宅したら、細波と鉢合わせしてしまうかも知れない。コンビニへ行ったら、少し時間を潰してから帰ろう。
芽生は上着の前をギュッと掻き抱くようにして身体をちぢこめると、そう思った。
***
コンビニでお目当ての鍋焼きうどんやラーメンなどをカゴへ入れた芽生は、用もないのに書籍コーナーでなんとなく目についたファッション雑誌を手に取ると、ぺらぺらとめくってみる。
表紙にデカデカとデザインされた『ニットで手軽に女っぽく!』という文言に釣られたのだが、表紙を飾る女性が着ているトップスは、暖かそうだし何よりデザインが可愛らしい。
淡いピンクベージュのリブニットは、ダボダボ感があって芽生の大きな胸を目立たなくしてくれそうだ。
(いつもよく行くファストファッション店にも似たのがあるかな?)
毎回、つい胸基準で服を選んでしまう癖がついている芽生は、そんなことを思ってしまう。
実は職場のメイド風な制服は、体にぴったりフィットするデザインのため、胸の辺りが強調されて辛かった。胸に合わせるとサイズが大き過ぎになるし、かと言って芽生の小柄な体型に合わせれば胸が締め付けられて苦しい。
結局中間どころを選んで着用している芽生だったけれど、胸元のボタンがはち切れそうなことを下卑た視線とともに大学生グループに揶揄われたことがある。
そのことを京介に話したら、すぐさま店長と掛け合ってくれて、下にタンクトップなどを着ることを前提に、胸元のボタンを上三つ外す許可を取り付けてくれた。
なんでも近いうちに制服の刷新も検討されているらしい。
それを知った時はさすがに、京介がただ単に店長へ掛け合っただけではない気がしてソワソワした芽生だったけれど、『将来お前と同じ思いをする子が出てくるかもしんねぇだろ? 改善は必然なんだよ』と頭をポンポンされて、納得した。
(京ちゃん……)
そこで、いつも何だかんだ言って自分を助けてくれる京介のことを思い出した芽生は、彼に助けを求めてみようかな? と思って。
いそいそと携帯電話を取り出して京介の連絡先を呼び出したところで、思わず躊躇いに手を止めてしまう。
(実際に今、何かあるわけじゃないのに不安ってだけで京ちゃんに助けを求めてもいいのかな? 迷惑じゃない?)
本当は、今すぐにでも『助けて!』と電話を掛けたいところだけれど、京介は普通のサラリーマンとは違って、いつどこで何をしているのかよく分からない男なのだ。
下手に電話を掛けて、もし仮に京介が《《大事な商談》》の真っ最中だったりしたらまずい。彼の仕事の邪魔はしたくないし、なにより実際に細波が家まで押し掛けてきたわけでもないのに、大袈裟かな? とスマートフォンを持つ手が下がりかける。
(でも……)
今日一日細波から無理矢理、一度ならず二度までも手を握られたことを思い出した芽生は、端末を握る手にギュッと力を込めた。
(電話は無理でもメッセージくらいなら……きっと都合がいい時に見てくれるよね……?)
そう自分に言い聞かせた芽生は、メッセンジャーアプリを立ち上げて、ポチポチと京介宛にSOSを打ち込んだ。
芽生の住まいはアパートやマンションなどではなく、庭付き平屋の一軒家だ。その言葉面だけだとすごく贅沢な感じに聞こえるが、実際はあちこちで立ち退きが進んでいるような、築五十年以上の昭和レトロなおんぼろ家屋。
今施錠したドアだって、斧を「えい!」と振り下ろせば、さしたる抵抗もなく木っ端微塵になってしまうような頼りない木製だ。そんな扉でも、一応外界と隔絶してくれる。そう思えただけで、芽生はホッと胸を撫でおろせた。
「怖かったぁー」
そして、何より気持ち悪かった。
なかなか整わない呼吸は、なにもダッシュで帰ってきた事ばかりが原因ではない。
安心したと同時、握られた手から鼻を刺すような細波の下品な香水の香りが漂ってきて、芽生は思わず眉根を寄せた。
いそいそと左手に見える出入り口を抜けて台所へ向かうと、いつもなら一プッシュのところを三プッシュもして、ハンドソープの泡をたっぷり手の上へ盛る。今愛用しているものは、手をこすり合わせなくてもポンプから直にふわふわの泡が出てくるのが嬉しい。
施設には基本ネットで蛇口へ吊るされたレモン型の黄色い石鹸しかなかったので、大人になって一人暮らしを始めた時、泡ハンドソープにいたく感動したのを覚えている。
芽生は、薬用の〝桃の香り〟と謳われた泡ハンドソープが特にお気に入りだった。
この家には洗面所なんて小洒落たものはついていないので、手洗いや歯磨きなどは全てキッチンの流しでしなければいけない。トイレだって今どき珍しい和式便所だし、風呂も昭和臭ぷんぷんのステンレス製の銀ギラな浴槽で、それを取り囲むのは冬とっても寒い玉石タイプのモザイクタイル張り。
その分3DKの広い庭付き物件にもかかわらず家賃が月三万円と破格なのだが、不便がないかと言われれば嘘になる。
そんななので、必然的に流し台付近にはキッチングッズだけでなく、洗面用品や手洗い石鹸なども並べてあった。
お気に入りのハンドソープで手を清めて、恐る恐る匂いを嗅ぐと、嫌な匂いは取れて優しい桃の香りになっていてホッとする。
それと同時、現金なもの。腹の虫がグゥーと鳴いた。
「お腹すいた……」
芽生は帰りにスーパーへ寄って、一人前の鍋焼きうどんセットを買って帰ろうと思っていたことを思い出して小さく吐息を落とした。
(細波さんのせいで買いそびれちゃった)
仕方なく何か作れやしないかと冷蔵庫を開けてみたのだけれど、牛乳とお茶、それからマヨネーズとケチャップしか入っていない冷蔵庫では、空腹を満たせそうにない。
(ラーメンとか買い置きしてあったら、こういうとき違うかな)
芽生は少しだけ考えて、細波と出会しそうな玄関からではなく、台所にあるお勝手口から裏口を抜けてコンビニへ走ろうかな? と思いついた。
スーパーまでは結構距離があるけれど、コンビニならすぐそこだ。
芽生はちょっとだけ迷って、屋内の電気をつけたまま出かけることにした。実は芽生、施設暮らしでずっと誰かがいる生活に慣れていたからか、灯りの点っていない自宅へ帰宅するのはちょっぴり苦手なのだ。
「行ってきます」
誰もいない部屋に向かってそうつぶやくと、芽生は財布とスマートフォン、それからお買い物袋だけを抱えてお勝手口からこっそり外へ抜け出した。
自宅を出てすぐ、先ほど見かけたド派手で悪趣味な金ピカセダンを見かけた芽生は、電柱の影に隠れてそれをやり過ごした。細波に家を教えた覚えはないが、この感じ。絶対に知られていると確信して、何だかすごく怖くなる。
あまり早く帰宅したら、細波と鉢合わせしてしまうかも知れない。コンビニへ行ったら、少し時間を潰してから帰ろう。
芽生は上着の前をギュッと掻き抱くようにして身体をちぢこめると、そう思った。
***
コンビニでお目当ての鍋焼きうどんやラーメンなどをカゴへ入れた芽生は、用もないのに書籍コーナーでなんとなく目についたファッション雑誌を手に取ると、ぺらぺらとめくってみる。
表紙にデカデカとデザインされた『ニットで手軽に女っぽく!』という文言に釣られたのだが、表紙を飾る女性が着ているトップスは、暖かそうだし何よりデザインが可愛らしい。
淡いピンクベージュのリブニットは、ダボダボ感があって芽生の大きな胸を目立たなくしてくれそうだ。
(いつもよく行くファストファッション店にも似たのがあるかな?)
毎回、つい胸基準で服を選んでしまう癖がついている芽生は、そんなことを思ってしまう。
実は職場のメイド風な制服は、体にぴったりフィットするデザインのため、胸の辺りが強調されて辛かった。胸に合わせるとサイズが大き過ぎになるし、かと言って芽生の小柄な体型に合わせれば胸が締め付けられて苦しい。
結局中間どころを選んで着用している芽生だったけれど、胸元のボタンがはち切れそうなことを下卑た視線とともに大学生グループに揶揄われたことがある。
そのことを京介に話したら、すぐさま店長と掛け合ってくれて、下にタンクトップなどを着ることを前提に、胸元のボタンを上三つ外す許可を取り付けてくれた。
なんでも近いうちに制服の刷新も検討されているらしい。
それを知った時はさすがに、京介がただ単に店長へ掛け合っただけではない気がしてソワソワした芽生だったけれど、『将来お前と同じ思いをする子が出てくるかもしんねぇだろ? 改善は必然なんだよ』と頭をポンポンされて、納得した。
(京ちゃん……)
そこで、いつも何だかんだ言って自分を助けてくれる京介のことを思い出した芽生は、彼に助けを求めてみようかな? と思って。
いそいそと携帯電話を取り出して京介の連絡先を呼び出したところで、思わず躊躇いに手を止めてしまう。
(実際に今、何かあるわけじゃないのに不安ってだけで京ちゃんに助けを求めてもいいのかな? 迷惑じゃない?)
本当は、今すぐにでも『助けて!』と電話を掛けたいところだけれど、京介は普通のサラリーマンとは違って、いつどこで何をしているのかよく分からない男なのだ。
下手に電話を掛けて、もし仮に京介が《《大事な商談》》の真っ最中だったりしたらまずい。彼の仕事の邪魔はしたくないし、なにより実際に細波が家まで押し掛けてきたわけでもないのに、大袈裟かな? とスマートフォンを持つ手が下がりかける。
(でも……)
今日一日細波から無理矢理、一度ならず二度までも手を握られたことを思い出した芽生は、端末を握る手にギュッと力を込めた。
(電話は無理でもメッセージくらいなら……きっと都合がいい時に見てくれるよね……?)
そう自分に言い聞かせた芽生は、メッセンジャーアプリを立ち上げて、ポチポチと京介宛にSOSを打ち込んだ。