まだ触れられたくて、でも触れたい。
静かな夜と、少しずつ近づく手

数日後の夕暮れ。ウィーンの街は秋の光に包まれ、通りを歩く人々の足取りもゆったりとしている。柔らかく差し込む夕陽が建物の壁に映り、オレンジ色の影が伸びていく。

保育園の仕事を終えた杏奈は、今日も少し早めに帰宅の支度をする。カバンを肩に掛けながら、ふと小さな笑みを浮かべる。

(……最近、少しずつだけど、紫苑さんの生活に混ざれている気がする)

その思いだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。日常の中で交わす短い言葉、ささやかな触れ合い――すべてが、今まで知らなかった安心感を杏奈に与えていた。

     ***

玄関のドアを開けると、菜央が元気に駆け寄る。

「せんせー! 今日はお絵描きするの!」

思わず微笑んで手を伸ばす。ふわふわの髪の感触が心に小さなぬくもりを残す。

「じゃあ、一緒に楽しもうね」

紫苑は少し照れたように微笑みながら、杏奈の隣に座る。肩が自然に触れ合い、互いの呼吸がゆっくりと重なる。

「……今日はどうだった?」

低く落ち着いた声が耳元に届き、杏奈の頬にほのかな赤みが差す。

「少し疲れたけど……こうして戻ってくると、落ち着きます」

指先がそっと紫苑の膝に触れる。小さな接触でも、胸の奥にじんわりと温かさが広がる。目を合わせなくても、互いの存在が安心感をくれることを、杏奈は改めて感じた。

     ***

夜が更け、菜央が眠った後、二人はリビングで静かに過ごす。

「……最近、こういう時間が、少しずつ増えてきましたね」

杏奈のつぶやきに、紫苑は微笑みを浮かべる。

「うん……急ぐ必要はない。二人のペースで、ゆっくり」

その言葉に、胸の奥から温かいものが込み上げる。心を開き、距離を縮めること――焦らず自然にできる相手がいることに、杏奈は静かな喜びを覚えた。

「……紫苑さんといると、なんだかほっとします」

「俺も……杏奈さんがそばにいると、心が落ち着きます」

視線が交わり、言葉にしなくても伝わるものがある。肩の距離が少し近づき、指先が触れ合う。互いの体温が、静かに心まで届く。

(……これが、私たちの小さな一歩なんだ)

杏奈は静かに息を吐き、紫苑の肩に頭を預ける。彼も自然に頭を傾け、互いの距離を確かめるように触れ合う。言葉にしなくても、互いの存在を感じられる時間――それが、二人にとって何よりの幸福だった。

夜の静寂の中で、窓の外の街灯がぼんやりと揺れる。外のざわめきも、遠くの車の音も、二人の小さな世界に入り込むことはできない。互いの存在だけが、今の二人の心を満たしていた。

杏奈は小さく息をつき、目を閉じた。胸の奥で、確かな安心感と甘い期待が混ざり合い、これから続く日々への希望が少しずつ膨らんでいく――そんな夜だった。
< 10 / 14 >

この作品をシェア

pagetop