まだ触れられたくて、でも触れたい。
少しずつ、二人の時間
数日後。ウィーンの街は秋の気配を帯び、夕暮れ時の空は淡いオレンジ色に染まっていた。通りを歩く人々の足取りもどこか穏やかで、街角のカフェから漂うパンの香りや、少し冷たい風に混じる紅葉の匂いが、杏奈の気持ちを柔らかく包む。
保育園を終えた杏奈は、今日も少し早めに帰宅の準備をした。カバンを肩に掛けながら、心の奥で小さく笑みを浮かべる。
(……あの人の生活の一部に、少しずつ混ざれている気がする)
そう思うだけで、胸がほんのり温かくなる。紫苑との距離はまだ“完全に近い”わけではない。けれど、ふとした瞬間に触れる手や、言葉にしなくても伝わる視線が、確かな心のつながりを教えてくれる。
***
その日の夕方、玄関を開けると、菜央が元気いっぱいに駆け寄った。
「せんせー、今日は一緒におやつ食べよう!」
杏奈も思わず笑顔になる。自然に手を伸ばして菜央の頭を撫でると、ふわりとした髪の感触が心に優しいぬくもりを残した。
「はい、じゃあ一緒にね」
紫苑は少し照れくさそうに微笑みながら、ソファに座る杏奈の隣に腰を下ろした。肩が軽く触れ合い、互いの呼吸が微かに伝わる。
「……今日はどうだった?」
紫苑の低い声が、耳元で心地よく響く。杏奈はカップに手をかけながら、微かに頬を赤らめて答えた。
「少し疲れたけど……こうして戻ってくると、落ち着きます」
手が自然に紫苑の膝に触れる。小さな接触でも、胸の奥にじんわりと温かさが広がる。目を合わせなくても、互いの存在が安心感をくれることを、杏奈は改めて感じた。
***
おやつを食べ終え、菜央が眠りにつく頃、二人はリビングで静かに座っていた。
「……少しずつ、こんな時間も増えるといいですね」
杏奈のつぶやきに、紫苑は軽く微笑む。
「うん……無理に急がなくても、ちゃんと二人のペースで」
その言葉に、杏奈は胸の奥からふわりと温かいものが込み上げるのを感じた。心を開くこと、距離を縮めること、それが焦らず自然にできる相手がいる――その幸福感に、思わず小さく息を吐く。
「……紫苑さんといると、なんだか、ほっとします」
「俺も……杏奈さんがそばにいると、心が落ち着きます」
互いに視線を交わすと、言葉にしなくても伝わるものがある。肩の距離が少し近づき、手の先が自然に触れ合う。互いの体温が、静かに心まで届くような感覚――。
***
夜が深まり、窓の外には柔らかな月光が街を照らす。二人の間に言葉はほとんど必要なく、ただ互いの呼吸や温もりを感じながら過ごす。
杏奈は小さく息を吐き、紫苑の肩に頭を預ける。彼も自然に頭を傾け、互いの距離を確かめるかのように触れ合う。言葉にしなくてもわかる――今、この時間、二人は確かに近くにいる。
(……これが、私たちの小さな一歩なんだ)
胸の奥でそう実感しながら、杏奈は静かに目を閉じた。外のざわめきや街灯の光も、二人の世界には届かない。静かな夜の中で、互いの存在だけを感じられる――それが、今の二人にとって何より贅沢で、確かな幸福だった。