まだ触れられたくて、でも触れたい。
ディナーの夜と揺れる心

「先生、遠慮しないで。……こっち、どうぞ」

 差し出されたエプロンを、杏奈は両手で受け取りながら、小さく瞬きをした。
 温かみのある布地が掌に触れただけなのに、なぜか胸の奥が少しざわつく。

「すみません……じゃあ、お借りしますね」

 おずおずと頭を下げ、エプロンの紐を結びながら視線を上げる。
 紫苑の自宅は、白を基調とした明るい空間に、木の色がアクセントのように散りばめられていて、静かに心をほどくような居心地の良さがあった。
 家具の配置や観葉植物の置き方、壁に掛かった小さな絵――どれも主張しすぎず、それでいてきちんと「そこにある意味」を感じさせる。

(……この部屋、紫苑さんが整えてるんだ……)

 そんな想像をしただけで、胸がかすかに熱を帯びた。

 キッチンのカウンターには、菜央が言っていた「ママのオムライス」の材料が整然と並んでいる。
 にんじん、たまねぎ、鶏肉、ケチャップ……どれも新鮮で、切られるのを静かに待っているように見えた。

「卵はね、ふわふわがいいの。ケチャップのごはんには、にんじんとたまねぎと、お肉も!」

 菜央は両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、まるでシェフのように真剣な表情をしている。
 その姿に思わず笑みがこぼれる。
 この子は、本当に食べることが好きで、そして家族の味を大事にしているんだな――そう思うと、胸の奥がほのあたたかくなった。

「じゃあ、先生と一緒に作ろうか。……紫苑さんは見ててくださいね?」

「いや、俺も手伝いますよ。料理、けっこう好きで」

「……そうなんですか?」

「一人暮らし、長いんで。冷蔵庫にあるものでちゃちゃっと作るの、得意なんです」

 軽やかに包丁を手に取り、玉ねぎをみじん切りにしていく紫苑。
 その手つきは無駄がなく、力みもない。料理に慣れた人間の動きだ。
 普段、スーツ姿で穏やかに話す彼しか知らなかった杏奈は、そのギャップに一瞬見とれてしまった。

(……私服で、エプロン姿で、こんなふうに料理してるなんてかっこいい)

 淡いライトが紫苑の髪にやわらかな影を作る。
 その横顔は、どこか安心感と頼もしさを同時に与えてくる。
 胸の奥で、何かが小さく跳ねた。

(ダメ……ただの保護者なのに……)

 慌てて気持ちを整えようと深呼吸をし、杏奈は卵を割った。
 黄身がつややかに揺れて、フライパンの中で小さく音を立てる。

 ――それだけのことが、なぜか、ひどく心に残った。


「いただきます!」

 菜央の明るい声が、食卓を満たす。
 三人の前には、湯気を立てるオムライスが並び、その香りが部屋いっぱいに広がっていた。

 菜央は一口食べて、目を丸くする。

「おいしい……! ママのとちょっとちがうけど、似てる!」

「ほんと? よかったぁ」

 その笑顔が、紫苑の方に向けられたわけではないのに、彼の表情もやわらいでいた。
 まるで、自分までその温かさを分けてもらったように。

「先生、手際よかったですね。普段から料理してるんですか?」

「まあ……最低限は。でも、オムライスは日本の保育園でも作っていたので、得意かもしれません」

「うん、本当に美味しい。……菜央が惚れるのも分かるな」

「……へっ?」

 唐突な言葉に、スプーンを持つ手が止まる。
 耳の奥が、熱い。

「い、今……」

「ん? ああ、俺じゃなくて、菜央がね。菜央、いつも“先生大好き”って言ってるから」

「……そ、そうですよね」

 安堵と、奇妙な失望感が同時に胸をかすめる。
 自分でも、その感情の正体が分からなくて戸惑った。

 そんな時――

「ねえ、先生と紫苑、けっこんすればいいのに」

 あまりに自然な調子で、菜央は口にした。
 オムライスをすくいながら、当たり前のことを言うみたいに。

「ええっ!? な、なおちゃん……っ」

 声が裏返る。
 頬が一気に熱を帯び、視線を彷徨わせる。
 紫苑は苦笑しながら、菜央の頭を撫でた。

「菜央、結婚っていうのはね、ちょっと特別なんだ。簡単に“すればいい”ってもんじゃない」

「そっかぁ。でも……ほんとになったら、うれしいな」

 その無邪気さは、杏奈の胸の奥に、やわらかく、そして少しだけ切なく沈んでいった。

 食事を終え、菜央が眠たげに目をこすった頃――
 紫苑は「駅まで送ります」と静かに言った。

 夜風が頬をかすめる。
 ウィーンの街灯が遠くで瞬き、石畳を淡く照らしている。

「……少し寒くないですか?」

「え? いえ、大丈夫です」

 そう答えたのに、紫苑は迷いなく自分の上着を肩にかけてきた。
 その一瞬、体温が近くなる。布越しに伝わる温もりが、なぜかくすぐったい。

「……あの、わたし、今日すごく楽しかったです」

「俺もです。先生がいてくれて、菜央も嬉しそうだった」

 その言葉に、また胸の奥が小さく跳ねる。
 視線を合わせたら、たぶん逃げられなくなる――そう思った瞬間、

「……杏奈さん」

 名前を呼ばれ、反射的に顔を上げた。
 その目に、確かに何か熱を帯びた光を見てしまった。

「……紫苑さん?」

 なにかが、始まる予感。
 けれど――不意に、スマホが震えた。
 画面には母からのメッセージ。

 ――【今度のお見合い写真です。連絡ちょうだいね 母より】

 現実が、静かに割り込んでくる。
 さっきまであたたかく揺れていた何かが、すっと冷えていくのを感じた。

「……すみません、そろそろ帰りますね」

「……ええ。気をつけて」

 夜の空気の中、背中に残るのは紫苑の視線。
 それが切ないほどに優しいことを、振り返らなくても分かった。

(今夜、触れられなかった気持ち……また、どこかで重なる日がくるのかな)

 答えのないまま、杏奈の心は静かに揺れ続けていた。
 
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