まだ触れられたくて、でも触れたい。
お見合い写真と、それぞれの想い

 夜は、いつもより深く、静かだった。
 窓から差し込む月の光は銀色に冷たく、アパートの一室を淡く照らしている。
 その光の下で、杏奈はただ一人、ソファの上でスマートフォンを手にしたまま、動けずにいた。

――【今度のお見合い写真です。連絡ちょうだいね 母より】

 件名を見た瞬間、胸の奥に、ひやりとした感覚が広がる。
 添付ファイルを開くと、そこにはスーツ姿の男性の笑顔。年齢はおそらく自分と同世代。髪型も服装も整っていて、世間的には「良い人」と評されるだろう――そんな無難な印象の人物。

「……はぁ……」

 深く、ゆっくりとため息が漏れる。
 こんなに遠く離れた場所にいるのに、母からのお見合い話は容赦なく追いかけてくる。
 自分は今、夢に向かって、ここウィーンで必死に日々を積み重ねている。それなのに、母の中では――いや、実家の空気の中では――「いつか日本に帰り、結婚して落ち着くこと」こそが、娘の幸せだと固く信じられている。

 けれど、杏奈の胸には、どうしても否定しきれないひとつの光景が、何度も浮かんできた。

 ――白を基調とした温かな部屋。
 小さな手でスプーンを握る菜央。
 そして、ふわりと笑って隣に座る紫苑の姿。

 あの食卓にあったのは、仕事でも義務でもない、ただ「一緒にいたい」という空気。
 ふと視線を交わしたときの、あの落ち着くような、くすぐったいような感覚。
 それがあまりに自然で、心地よくて――胸の奥がじんわりと温まった。

(あんなふうに、人と食卓を囲むって……こんなに、あたたかいんだ)

 家庭的な時間なんて、自分には縁のないものだと思っていた。
 保育士の仕事が好きで、夢は園長になること。ずっとそれだけを追いかけてきた。
 でも、紫苑の隣に立つ自分を想像してしまった瞬間、心の中に、ぽたりと別の色が落ちて広がった。

「……だめ、だめだってば……」

 自分に言い聞かせるように、スマホを伏せる。
 けれど、胸のざわめきは簡単に静まってくれなかった。
 そのざわめきは、昨夜の紫苑の声の温度と、目の奥に潜む静かな熱を、何度も蘇らせる。


 翌朝。
 チャイルドケアセンターには、いつものように子どもたちの笑い声が溢れていた。
 カラフルな積み木、絵本、絵の具のにおい――そのどれもが、杏奈にとって心をほぐす風景だ。

「Anna sensei! Look look〜!」

「Wow! You built such a big tower!」

 園児たちが誇らしげに見せてくる高い積み木の塔に、杏奈は笑みを返す。
 その笑顔は自然なはずなのに、ふと気がつくと、視線の奥がどこか遠くを見てしまっていた。

(集中……しなきゃ)

 そう思っても、頭の片隅には昨夜のことと、スマホのメッセージが居座り続けていた。

「先生、どうしたの? なんか……元気ない」

 袖口をそっと引かれ、振り返ると、菜央がじっと杏奈を見上げていた。
 その小さな目は、不思議なほどまっすぐだ。

「えっ……そんなことないよ?」

「うそ。アンナ先生、ほんとはなにか悲しいことあったでしょ?」

 ――子どもって、本当によく見ている。
 笑顔でごまかせば通じると思っていたのに、その視線は一瞬で心の奥まで届いてくる。

 ふっと肩の力が抜けて、杏奈はしゃがみ込み、菜央と同じ高さで向き合った。

「……うーん、ちょっとだけね。大人の悩みかな」

「大人の悩みって、なぁに?」

「えっと……お母さんが、私に“けっこんしなさい”って言ってくるの」

「けっこんって、すきな人とずっと一緒にいるやつでしょ?」

「そうそう。でもね、杏奈先生には……“すきな人”がまだよくわからないの」

「じゃあ、紫苑にすればいいじゃん!」

「……えっ?」

「だって、紫苑、この前“先生かわいいな”って言ってたよ? 帰ってからずっとニコニコしてたもん!」

「……ほんとに?」

「うん! 菜央、見てた!」

 心臓がどくん、と大きく鳴る。
 思わず耳まで熱くなるのを感じた。
 子どもは時に、大人よりも鋭く、そして容赦なく真実を突きつけてくる。


 夕方。
 仕事を終え、スーパーの袋を提げて歩いていると、角を曲がったところで――紫苑とばったり出くわした。

「先生……あれ、買い物帰りですか?」

「あ、はい。ちょっと食材を……」

「それ、けっこう重そうですね。もしよかったら……少し、一緒に歩いてもいいですか?」

「えっ……」

「ちょっとだけ。……先生のこと、もう少し知りたくなったから」

 その言葉は、まっすぐで、不意を突くように優しい。
 嬉しさと戸惑いが同時に胸を満たし、息が少しだけ詰まる。

「……少しだけなら。あの、歩くの遅いですけど」

「それなら、ゆっくり歩きましょう」

 空がオレンジ色に染まり、石畳がやわらかな光を反射している。
 その道を、二人は並んで歩き出した。
 歩幅を合わせながら、何も急がず、ただ少しずつ距離を縮めるように。

 ――まるで、何かが静かに動き始めたように。

 昼間のざわめきが嘘のように、夜は静かだった。
窓の外に広がる庭は、月の光を受けて白く縁取られ、葉の影だけが淡く揺れている。
部屋の中では、かすかな湯の香りと、まだ乾ききらない髪から立ちのぼる温もりが混じり合っていた。

「……今日は、本当にありがとう」
声に出すと、胸の奥が少し震える。感謝の言葉ひとつすら、今までは簡単に言えなかった。
彼は机に置かれた湯呑を手に取り、静かに笑う。その微笑みに、視線を逸らすことができなくなる。

「礼なんて、要らない。俺が勝手にやったことだ」
低く響く声は、いつもより近くて、少しだけ柔らかい。

ふと、肩に落ちた自分の髪を彼が指先で払った。
その一瞬の仕草が、何故だか心臓の奥まで響く。
触れられたのはほんの一瞬なのに、指先の感触がずっと残っているようで、胸が熱くなる。

「……どうした、顔が赤い」
からかうように覗き込まれ、慌てて首を横に振る。
けれど、彼は離れない。距離は、ほんの息一つ分。

月明かりが、彼の横顔を淡く照らす。
その光に引き寄せられるように、心の境界がほどけていく。
これまで守ってきた距離も、ためらいも、今夜だけは手放してしまっていい――
そんな予感が、静かに胸を満たしていった。

そして、この夜が、二人の距離を一気に縮める始まりになる。
 
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