まだ触れられたくて、でも触れたい。
少しずつ、すこしずつ

昼間の賑やかさを忘れたかのように、静かに街を包んでいる夜。
石畳の道に灯る街灯は柔らかく揺れ、ふたりの影を長く伸ばす。
杏奈は、紫苑の横顔をチラリと見やりながら、胸の奥で微かに弾む鼓動を感じた。

「……今日は、楽しかったです」
小さな声でつぶやくと、紫苑は少しだけ微笑んだ。

「俺もです。菜央も楽しそうで……それが何より嬉しかった」

その言葉を聞くと、胸が温かくなる。
胸の奥のざわつきが、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻した気がした。

歩く距離が自然と縮まり、肩と肩が触れそうになる。
風に揺れる杏奈の髪が紫苑の腕にかかりそうで、思わず息を呑む。

「……近いですね」
小さく呟く杏奈に、紫苑はくすりと笑って答える。

「ええ、でも、俺はこれくらいでちょうどいいと思うんです」

その答えに、杏奈の心臓がまた少し跳ねる。
まっすぐに見つめられるだけで、胸がじんわり熱くなる。
今まで仕事として見ていた“先生”の自分ではなく、ひとりの女としての自分が、静かに、しかし確実に顔を出していた。

「紫苑さん……」
思わず名前を呼ぶと、紫苑は少し顔を傾け、耳元にそっと囁いた。

「杏奈さん」

その声は低く、柔らかく、甘く響いた。
体温が伝わる距離にいるだけで、全身の細胞がざわつくような感覚。
胸の奥の不安も、焦りも、一瞬だけ、ふわりと溶けていく。

「……また会えますか」

「もちろん。今度は、菜央ちゃん抜きでも」

杏奈の心に、小さな火が灯った。
“あなた自身に会いたい”――その言葉は、子どもを介した日常から、ふたりだけの時間へと誘う魔法のように響く。

「……はい」

その言葉を口にした自分に、まだ少し驚いている。
けれど同時に、胸の奥で嬉しさと期待が広がり、甘い高鳴りが止まらなかった。

帰宅後、シャワーを浴びて髪を乾かす。
鏡に映る自分の頬は、まだ赤く、心臓は少し乱れている。
それは、仕事の緊張でも、子どもへの責任感でもない――
ただ、紫苑に触れられたこと、名前を呼ばれたこと、そして自分の心がそれに応えていることへの、純粋な昂ぶりだった。

「……わたし、今夜、すごくドキドキしてる」
小さく呟くと、タオルで顔を覆って、自分の鼓動を確かめる。
“保育士の先生”ではなく、“ひとりの女の子”として、確かに誰かを想い、胸をときめかせている自分。
それだけで、心の底が柔らかく温かくなる。

そして、遠くの夜空の向こうに浮かぶ月の光が、そっと頬を撫でるように感じられた。
その光の下で、杏奈はもう一度心の奥で決めた――
次に紫苑に会うときは、もう少し自分の気持ちを、素直に伝えてみよう、と。

 ***

 夜のウィーンは、静寂に包まれ、街灯のオレンジ色の光が石畳を温かく照らしていた。
杏奈と紫苑は、スーパー帰りの小道を並んで歩く。手に持つ買い物袋の重みは、どこか遠慮がちに互いの距離を意識させる。

「……今日は、ありがとうございました」
杏奈が小さく呟くと、紫苑は袋を一つ持ち上げてくれた。
その手の温かさが、胸の奥をじんわりと温める。

「こちらこそ。俺、こうして一緒に歩ける時間が、意外と楽しみなんです」
真っ直ぐに見つめる瞳に、杏奈は思わず視線を逸らした。
(こんなに近くで見つめられたら……胸が……)

歩幅を合わせて進むたび、肩が触れそうで触れない距離。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が少しだけ乱れる。
それでも杏奈は、意識的に落ち着こうと深呼吸をする。

「……寒くないですか?」
紫苑の声が、ふいに耳元に届く。
肩越しに、そっと自分の上着をかけられる。
その瞬間、杏奈の胸はぎゅっと締め付けられた。

「……ありがとうございます」
言葉が震える。
照れくさいのに、嬉しい。こんなにも心が揺れるのは、久しぶりだった。

ふと立ち止まる紫苑。杏奈も自然に止まる。
街灯の下で、二人の影が寄り添うように重なった。
紫苑の瞳が、月明かりに照らされて深く輝く。

「杏奈さん……」
名前を呼ばれるだけで、胸が甘く締め付けられる。

「……紫苑さん」
思わず顔を上げると、紫苑はゆっくりと手を差し出した。

「よければ……手、つないでもいいですか?」
その瞳には、真っ直ぐな想いが映っている。
杏奈の胸は、瞬時に高鳴り、手のひらが少し汗ばむのを感じた。

「……はい」
震える声で応えると、紫苑の手が優しく自分の手を包んだ。
その温かさに、心がふわりと溶ける。

「こうしてると……落ち着きますね」
紫苑の声が囁くように甘く、耳元に響く。
杏奈は頬を少し赤くして、手の温もりをそっと握り返した。

「私も……なんだか、安心します」
今まで誰にも見せなかった小さな弱さを、彼の前で自然に見せられる自分に、杏奈は驚きと喜びを感じた。

そして、紫苑が少しだけ顔を近づける。唇はまだ触れない。
でも、鼓動が耳に響くほどの距離で、熱が交わる。
杏奈の胸がぎゅっと締め付けられ、呼吸も止まりそうになる。

「……本当に、会えてよかった」
紫苑の囁きに、杏奈は目を閉じる。
心の奥でずっと隠していた感情が、少しずつ、確かに、動き出している。

夜風が二人の間を柔らかく吹き抜け、街灯の光が影を揺らす。
手と手が触れ、距離がぴたりと縮まったその瞬間、杏奈は思った。
(これが……“甘くて優しい距離感”なんだ――)

夜のウィーンの街に、ふたりだけの時間が静かに、しかし確かに流れ始めた。
あとは――ただ、この温もりを、噛み締めるだけでいい。

「……杏奈さん」
紫苑の声が、ふっと低くなる。
耳元で囁かれるたび、胸がぎゅっと締め付けられる。

「……はい」
小さく応える声は震えていた。頬もほんのり赤い。
杏奈は、自分の鼓動の速さに気づかずにはいられなかった。

紫苑は少しずつ歩みを止めると、杏奈の顔をじっと見つめた。
街灯に照らされるその瞳は、闇夜の中で光を放つ宝石のように澄んでいて、杏奈の視線は吸い込まれるように固定される。

「……近くて、落ち着かないですね」
杏奈は思わず小声でつぶやいた。
紫苑は微かに笑い、でもその手は離さず、そっと彼女の指先に触れる。

「……いいんです。俺も、こうしていると、安心します」
その声は、囁きのようでいて、胸に直接響いた。
杏奈は一歩後ろに下がろうとしたが、足がすくむ。
距離を離すどころか、心はますます紫苑の存在に引き寄せられていた。

紫苑がゆっくりと顔を近づける。
息遣いが重なり、彼の温もりが杏奈の頬をかすかに撫でる。
鼓動は胸だけでなく、全身に広がる熱となって、心を支配する。

「……紫苑さん……」
唇を近づけるその瞬間、杏奈は全身の感覚が研ぎ澄まされるのを感じた。
目を閉じれば、街の音も、遠くの車の音も、すべてが消える。
二人だけの世界に包まれて、息が絡むように感じられる。

「……触れても、いいですか」
紫苑の声は、遠慮というよりも、確かな想いが込められていた。
杏奈は一瞬、理性で考えようとした。
“先生として、冷静に……でも、もう無理――”

「……はい」
小さく頷くと、紫苑の唇がそっと触れた。
それはまだ軽く、甘く、柔らかい――けれど、確かに二人の距離を超えた瞬間だった。

杏奈の胸は跳ね、息が止まる。
唇に触れた温かさが全身に伝わり、長く閉じ込めていた感情が一気に溢れ出す。
紫苑の手も自然に、肩から腕へと移り、そっと抱き寄せる。

「……杏奈さん」
名前を呼ばれるだけで、胸が甘く締め付けられる。
「……紫苑さん……」
呼び返す声も震え、唇が再び重なる。
二度目は少し深く、互いの温もりを確かめるように。

街灯の下、二人の影が寄り添い、夜風に髪が揺れる。
初めて触れ合った唇の感触は、ただの甘さではなく、信頼と優しさを含んだものだった。
杏奈は心の奥で、初めて自分の弱さを晒しながらも、安心して身を委ねていた。

(――ああ、こんな気持ち、もう誰にも隠せない……)

紫苑の腕に包まれ、甘くて温かい夜は、二人の距離を確実に縮めたまま、静かに流れていった。
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