まだ触れられたくて、でも触れたい。
秘密のディナーと、見えない一歩

翌週末。夏の終わりの余韻をやわらかくまといながらも、まだ温かな陽射しに包まれていた。アパートの窓から差し込む光が、床に淡い影を落とす。杏奈は鏡の前に立ち、そっと自分の姿を見つめた。

「……先生じゃない私って、どう見えてるのかな」

 つぶやきとともに、胸の奥が小さくざわつくのを感じる。普段は“保育士の先生”として、子どもたちの前ではしっかりと振る舞う自分。しかし今日は違う。紫苑さんと二人きりのディナー。肩書きも、役割も、誰の目も気にせず、ただ一人の女性として向き合う夜だ。

 エリーナが貸してくれたシンプルなワンピースに、ほんの少し大人びたピアスを合わせる。メイクもいつもより丁寧に、髪はゆるく巻き、耳元でふわりと揺れる髪が自分の頬をかすめるたびに、心が不思議な高鳴りを見せた。

(……紫苑さん、どう思うだろう。……やっぱり、変に見えるかな)

 そんな思いと同時に、少しの期待が胸に忍び込み、杏奈は思わず唇を緩めた。

     ***

 待ち合わせ場所に現れた紫苑は、いつもよりラフで、しかしどこか品のある装いで、まるで夏の光を優しく纏っているようだった。杏奈の胸は、軽く弾む。
「……来てくれて、ありがとうございます」
「こちらこそ……誘ってくださって、うれしかったです」

 そして、紫苑の目が杏奈をじっと見つめた瞬間――心の奥が、思わずぎゅっと縮む感覚に包まれる。
「今日の杏奈さん、すごくきれいです」

 ――え。
 そのストレートな褒め言葉に、胸の奥が小さく跳ねる。
「……あの、あんまり言われ慣れてないので、びっくりします」
「……なら、もっと言いたくなる」

 その声には、冗談めかした軽さがあったけれど、心の底に響く温度は確かだった。杏奈は思わず視線を逸らす。
「慣れてない杏奈さんが、可愛いから」

 それだけで、心臓がどくん、と大きく跳ねた。普段は理性的で、強がっている自分なのに、まるで子どもみたいに動揺してしまう。

     ***

 レストランの個室に案内されると、柔らかな灯りと静かな空気が、二人を優しく包んだ。
ワインの香り、食器の触れる音、微かに流れるクラシック音楽……すべてが、二人だけの時間を演出している。

「……昔、すごくお世話になったウィーンの園長先生がいて。今も手紙を送り合ってるんです」
「素敵な話ですね。……杏奈さん、すごく真面目で、一途なんですね」
「真面目すぎるって、よく言われます」

 紫苑の目が、優しく微笑む。
「ううん……俺は、そういう杏奈さんがすごく好きです」

 その言葉は、ワインの香りよりも濃く、杏奈の胸を温かく刺激した。
「……紫苑さんは、ずるいです」
「また言われた」

 ぽつりと呟いたその言葉に、紫苑の指がそっと杏奈の手に触れる。柔らかく、でも確かな温度。手が触れ合った瞬間、胸の奥から温かさがじんわり広がり、体の隅々まで満たされる感覚があった。

 ドアが閉まると、夜の静寂が二人を包む。街のざわめきは遠く、室内の柔らかな光だけが温かく揺れていた。
紫苑の手がそっと杏奈の手を握る。触れられた瞬間、身体中にじんわりと熱が広がり、心臓の鼓動が耳の奥まで響く。

「……杏奈さん、怖くないですか?」
紫苑の声は、低く、でもやさしく響いた。
「……少し、ドキドキしてます……」
杏奈は俯きながら答える。頬が熱く、呼吸が少し速くなるのを自覚した。

紫苑は微笑み、そっと杏奈の顎に指をかけ、顔を上げさせる。
「……そのままの杏奈さんが、俺には一番綺麗に見えます」

言葉に、息が止まる。唇が自然と重なる。最初は軽く触れるだけのキス。けれど紫苑の手が杏奈の背中を優しくなぞるたび、熱が身体中を駆け巡る。

「……紫苑さん……」
吐息まじりに呼ぶ声が、彼の耳に届く。紫苑は唇を少しずつ深め、杏奈の息を奪うように絡める。手が腰に回り、背を押し付けられる感覚に、杏奈は思わず体を震わせた。

「……ふ、ぁ……」
甘い吐息と鼓動が重なる。紫苑の手が首筋をなぞり、髪を指でかき分けると、杏奈の頬がさらに熱を帯びる。身体は自然に彼に寄せられ、心も、理性も、すべてが溶けていくようだった。

紫苑の唇が耳元に触れ、低く甘く囁く。
「怖がらなくていい……俺が、全部受け止めます」

その言葉に、杏奈は身体の奥まで熱が流れるのを感じた。指先が紫苑の胸に触れ、鼓動の強さを確かめる。抱き寄せる手の力が少し強くなるたび、杏奈は甘く震え、声が漏れた。

「……ん……っ」
唇が離れ、互いに息を整えようとしても、指や体が触れ合うたびに再び熱が溢れる。紫苑の手が背中から肩、そして腕へと滑り、杏奈を軽く抱き寄せる。
「……こんなにも、近くで感じると……」
杏奈の声は途切れ途切れになり、身体が自然に彼に預けられる。

「俺も……杏奈さんを、ずっと近くで感じたかった」
紫苑の声に、胸が締め付けられるように熱くなる。唇が再び触れ合い、今度は互いの息が完全に混ざる。手は互いの体をなぞり、感触を確かめ合う。

夜のアパートには、二人だけの世界ができあがる。
柔らかな光の中、身体の距離と心の距離が少しずつ溶け合い、触れた瞬間に生まれる温もりが確かな絆となっていく。

杏奈は目を閉じ、唇を彼に預ける。熱い吐息と鼓動が重なり合う中で、初めて「恋」と「愛」の感覚が身体の奥まで流れ込むのを感じた。
「……わたし……紫苑さん……」
言葉に詰まる。胸の奥がぎゅっと熱くなり、理性では制御できない衝動が身体を支配していく。
「怖がらなくていい……全部、俺が受け止める」
低く囁かれる声に、杏奈の体は小さく震えた。指先が自然と紫苑の胸や肩に触れ、互いの距離をさらに縮めていく。

やがて唇が再び触れ合い、最初は軽く重なるだけだったキスが、次第に深く、熱を帯びていく。紫苑の手が杏奈の腰に回り、背中を押し付けるように抱き寄せられるたび、息が詰まりそうになりながらも、心地よさに身体は委ねるしかなかった。

「……あっ……」
杏奈の小さな吐息が漏れる。そのたびに紫苑は唇を離さず、手のひらで髪や頬をなぞる。熱を帯びた触れ合いに、二人の距離はさらに縮まっていく。

杏奈は、理性ではなく心の奥の感情が体を支配しているのを感じた。普段は「先生」として子どもや周囲に向けている強さや落ち着きは、この夜、紫苑の前では何の意味も持たない。

「……わたし……紫苑さん……」
声はかすれ、身体は甘く震える。紫苑はそんな杏奈を見つめ、やさしく抱きしめる。二人の唇は離れたり重なったりしながら、まるで互いの心臓の鼓動を確かめるかのように交わる。

手の動きは少しずつ大胆になり、杏奈もまた抵抗するどころか、身体を預けることで彼を受け入れていく。肌が触れるたびに熱が走り、息遣いが交錯する。

時間が経つのも忘れ、二人は互いの体温と鼓動だけを頼りに、一夜の甘く濃密な時間を刻んでいった。窓の外の月光は、その熱に触れることなく、静かに夜を照らしていた。
 
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