まだ触れられたくて、でも触れたい。
朝の光と、心の距離
カーテンの隙間から差し込む朝の陽射しが、杏奈の頬をやさしく撫でる。淡い光は、まだ眠気の残る部屋の中に柔らかく広がり、薄いシーツの表面に穏やかな影を落としていた。杏奈は目を閉じ、昨夜の余韻を胸の奥でそっと反芻する。体をわずかに動かすと、背中にそっと腕が回されて、思わず息を呑む。
「あ……」
耳元で低く、まだ少し眠気を帯びた声が響いた。
「おはよう、杏奈さん」
紫苑の声だ。昨夜、何度も名前を呼び合ったあの声。温もりは背中越しに伝わり、彼の裸の胸に背中を預ける感覚が、体の芯までじんわりと広がる。
(……夢じゃなかったんだ)
昨夜、互いの心と体を預け合った記憶が、鮮明に蘇る。唇の感触、指先のぬくもり、互いの鼓動を感じながら、言葉にならない愛情を交わした夜。それは甘く、そして切なく、誰にも触れられない二人だけの時間だった。
なのに、朝の光に目覚めると、突然胸の奥から恥ずかしさが押し寄せる。思わずシーツをぎゅっと胸元に引き寄せて、自分の鼓動を落ち着かせようとする。
「……恥ずかしい……です」
小さく呟くその声に、紫苑の腕がさらに優しく回され、後ろから杏奈の手をそっと包む。
「どうして?」
「だって……先生なのに、こんなふうに……」
紫苑の手は、言葉よりもずっと安心感をもたらす温もりだった。柔らかくて、力強くなく、でも確かに包み込む力がある。彼の手に自分の手を重ねているだけで、心がじんわりと温かくなり、体中の緊張が溶けていく。
「先生じゃない杏奈さんを、俺は好きなんです。子どもたちにやさしくて、でも自分のことは後回しにして、頑張ってる……そんな杏奈さん」
「……そんなふうに見てくれてたんですか?」
不意に頬に触れ、軽くキスされると、杏奈は驚きのあまり顔を振り返す。その瞬間、互いの視線が絡み合った。暗がりだった昨夜とは違い、朝の光で紫苑の瞳が深い黒色に輝いて見える。真剣さと誠実さがそこにあり、冗談でも気まぐれでもないことが一目でわかる。
「……俺、本気であなたを想っています」
紫苑の言葉は、呼吸にまじるように、心の奥まで届く。杏奈は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じ、自然と手を握り返した。
(……こんなふうに、ちゃんと向き合ってくれる人がいたんだ……)
「……私、すごく不器用ですけど……頑張ってみたいです。紫苑さんと、ちゃんと向き合っていきたい」
小さな声でそう答えると、紫苑は微笑み、額にそっと唇を落とす。その優しさに、胸の奥がきゅっと熱くなり、安心感と幸福感が同時に押し寄せる。
「じゃあ、ちゃんと始めましょうか。“千歳杏奈と龍咲紫苑”としての関係を」
その言葉に、杏奈の心はふわりとほどける。まだ不安も少し残るけれど、紫苑となら、少しずつ歩み寄れる気がした。
紫苑の手が杏奈の頬に触れ、やさしく唇を重ねる。昨夜とは違う、朝の柔らかな光の中でのキス。軽く触れるだけのその口づけは、これからの二人の“日常”を予感させる、静かであたたかな約束だった。
***
身支度を整え、紫苑が淹れてくれたカフェオレを口にしながら、二人は穏やかに会話を続ける。
紫苑の好きな料理や、外交官としての日々の大変さ、そして菜央ちゃんのこと。軽い冗談も交えつつ、自然に笑い合う時間は、昨夜の熱とは違った、ゆるやかな幸福に満ちていた。
「……実は、菜央の両親が、来月、少し長めの仕事に出る予定で」
「えっ……じゃあ、しばらく菜央ちゃんは、紫苑さんと?」
「そうなると思います。……でも、俺ひとりで子育てできるのか、正直、不安です」
杏奈は素直に、彼の胸に手を置きながら答えた。
「……でも、紫苑さんなら大丈夫です。菜央ちゃん、すごくなついてますし」
紫苑は杏奈の手をそっと握り返す。その温かさは言葉以上の意味を持っていた。
「……もし、よかったら。今までみたいにじゃなくて、“家族”として、そばにいてくれませんか?」
その言葉の重みに、杏奈の胸が震える。まだ踏み出すには少し勇気が必要だけれど、心の奥底では――
「……少しずつ、でいいですか?」
紫苑はすぐに頷き、微笑む。
「もちろん」
それだけで、胸の奥がじんわりと温かく満たされる。目の前の光景と、彼の手の温もり、そして互いの心の距離。すべてが、ゆっくりとけて、これから歩む道をそっと照らしていた。
(この人となら、どこまでも歩いていけるかもしれない――)
ウィーンの朝は、静かに、そして確かに――二人の新しい時間を始めていた。