まだ触れられたくて、でも触れたい。
小さな距離のはじまり

翌週の平日。ウィーンの街は、まだ夏の名残を残しつつも、どこか秋の匂いが混じり始めていた。朝晩の涼しさが少しずつ肌を撫でるようになり、通りを歩く人々の服装も長袖が増え始めている。カフェのテラスには、温かいコーヒーの香りと焼き菓子の甘い匂いが混ざり合い、通行人の笑い声とともに、街全体が柔らかな日常のリズムに包まれていた。

杏奈は保育園の仕事を終え、帰路につく。重たいバッグを肩に掛けながらも、心は軽く、胸の奥で昨夜の余韻をそっと抱えていた。

(……昨日の朝、少しずつでも、距離を縮められた気がする……)

思い出すのは、朝の光に包まれながら交わした、静かで柔らかなキスの温もり。唇に残る感覚だけでなく、紫苑の指先が触れた瞬間の体の反応、胸の奥がじんわりと満たされた感覚まで、すべてが鮮明に蘇る。

心の奥では小さな満足感が膨らむ一方で、ほんの少しの不安も芽生えた。まだ“家族としての一歩”を踏み出すには、自分が勇気を持たなければならない。けれど、紫苑の瞳を思い出すと、どうしてか胸の奥に不思議な安心感が広がり、歩みを進める力をそっと与えられるようだった。

     ***

その日の夕方、スマートフォンが震える。紫苑からのメッセージだった。

「もしよければ、仕事帰りにちょっと寄ってくれませんか? 菜央も待ってます」

画面を見つめ、杏奈の頬に自然と微笑みが浮かぶ。心が軽くなるのを感じながら、すぐに返信を打った。

「はい、行きます」

駅から紫苑の家までの道を歩く間、夕焼けが街を朱色に染め、遠くの鐘の音が静かに響いた。道行く人々の足音や、カフェから漂う香ばしい匂いが、日常の穏やかさを告げる。その中で杏奈の心は少しだけ早鐘を打つ。紫苑の家に近づくたび、胸の奥が温かく、そして少しだけ緊張するのを感じた。

玄関のドアを開けると、菜央が元気に駆け寄り、笑顔で手を振る。

「せんせー!」

杏奈も自然に笑みを返す。普段はきちんと保育士として振る舞っている自分が、ここではただ“杏奈”として受け入れられている――そんな小さな幸福を感じる瞬間だった。

紫苑は少し照れくさそうに微笑み、静かに手を差し伸べる。

「おかえり、杏奈さん」

その一言だけで、日常の中に特別な時間がそっと入り込む。言葉にすると短いけれど、胸の奥にじんわりと広がる温度は、昨夜の夜の余韻と重なり合い、心を満たしてくれる。

     ***

キッチンで紫苑が丁寧に淹れてくれた温かい紅茶を手に、三人で過ごす小さな談笑の時間。菜央の無邪気な話や、保育園での出来事を聞きながら、杏奈は思わず自然な笑顔を返す。

そのとき、紫苑がそっと杏奈の手に触れた。手のひらの温もりが指先を通して体中にじんわりと広がる。言葉よりも、確かに伝わる安心感と愛情。

「……今日も、忙しかったでしょう」
「はい……でも、こうして戻ってくるとほっとします」

紫苑の手の温かさは、ただの触れ合い以上の力を持っていた。心の奥で、少しずつ自分が彼の生活の中に溶け込んでいくのを感じる。

「……少しずつでいいです。無理に全部を背負う必要はないから」

低くて、穏やかで、それでいて芯のある声。杏奈は自然に頷き、胸の奥がじんわりと温かくなる。焦る必要はない――そう思えるだけで、心が軽くなる。

     ***

夜が深まると、三人はリビングでゆったりと過ごす。菜央が眠りにつくと、杏奈と紫苑はソファに並んで座った。肩が自然に触れ合い、互いの呼吸がゆっくりと重なる。

「……今日はありがとう」
「こちらこそ。来てくれて、うれしかったです」

視線が交わり、互いに微笑む。まだ言葉にできない、しかし確かに胸の奥にある感情が、温かく広がる。

(……この距離感が、ちょうどいいかもしれない)

杏奈は小さく息を吐き、紫苑の肩にそっと頭を預ける。彼も自然に頭を傾け、微かに触れ合う。触れるか触れないかの距離で、互いの気配を確かめ合う――それが二人にとって今、最も心地よい時間だった。

ウィーンの夜は静かに更けていく。遠くから聞こえる街のざわめきや、窓の外の街灯の光が、二人の小さな時間をそっと見守っているかのようだった。

杏奈は胸の奥で、少しずつだが確かな安心感を覚える。紫苑との距離はまだ完全には縮まっていないけれど、今はこの“穏やかな近さ”を大切にしたい――そう思える夜だった。
 
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