調香師の彼と眼鏡店の私 悩める仕事と近づくあなた
 十四時を過ぎた頃、松葉杖をついた店長がタクシーでやってきた。

「あれ、亀井さん残ってくれていたの? 悪いことをしたね。わぁ……売上データまとめてくれていたの?」
「はい。後、皆さんのシフトを一覧で並べておきました。……脚、大丈夫ですか?」

 紗奈の心配をよそに店長は元気そうに杖を持ち上げた。

「大丈夫。ほら、こんなことも出来ちゃう。亀井さんには悪いことしたね。もう上がっていいよ。また別の日に半休つけておくね」
「ありがとうございます」

 紗奈は頭を下げつつ、高橋と佐々木の様子をチラリと確認する。
 紗奈の視線に気づいた二人は顔を見合わせてた後、紗奈と店長に近づいてきた。

「先輩、もう大丈夫ですよー。別に高橋さんと二人でも余裕でしたけど。ね、高橋さん。今日はデータ記入任せてくださいよ」
「あぁ頼む。フレームの微調整は俺がやるから。……何してるんだ。帰っていいぞ。店長もバックヤードでのんびり見ててくださいよ」

 二人の変わり様に、店長も紗奈も一瞬開いた口が塞がらなかった。しかし二人が午前中から協力していたのは事実だ。
 紗奈は店長に笑いかけた。

「今日は朝から二人が頼もしかったんですよ。彼らの言う通り、のんびりやってください。私はお先に失礼しますね」

 そう言うと、何かを察した店長はこれ以上ないほどの笑顔を見せた。

「ありがとう。皆、本当に頼もしくなったねぇ」

 店長の嬉しそうな声を聞いて、紗奈も心が温かくなるのを感じた。



 帰り支度をして店を出た紗奈は、スマホを握りしめたまま固まっていた。

「私ったら、行くのか行かないのか微妙なメッセージを送ってる……。しかも連絡するって……」

 先程小笠原に送った「はい」の二文字が重くのしかかる。
 紗奈は何度も深呼吸をした後、思い切って電話をかけた。

「もしもし、亀井です。今日はすみませんでした。あの……今、仕事が終わりまして」
「お疲れ様でした。それに、今日はご対応ありがとうございました。試しに眼鏡をつけて調香してみたのですが、軽くて見やすくて、良い感じですよ」
「わぁ、早速使ってくださったんですね! 良かったです」

 いつもと同じ優しいテノールの声が疲れと気まずさを吹き飛ばしてくれる。しかも眼鏡を使ってくれたのだと言うのだから、嬉しくて飛び上がりそうだった。

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