私の居場所は、先生の隣!
 私は部屋のあちこちを見渡した。

 ふと視線をやった先に、参考書がある。

 拾ってみると付箋がびっしり。

 表紙には英語で題が書いてある。

 開いて見たけど、数字がびっしりで……難しそう。

 「これ……何の本なんですか?」

 「……線形代数学応用」

 「…………」

 言われても分からない。

 「先生の……大学での本なんですね」

 「……昔、やってた事の名残りだ」

 低い声は、部屋の静けさに溶けるようだった。

 私は本を抱えたまま、続きを待った。

 「俺は、数学が好きだった。……いや、今も嫌いじゃない。

 大学では数学科に入って、自分のテーマを見つけて、ずっとそれをやってた」

 先生の指先が、机の縁をゆっくりとなぞる。

 その仕草は落ち着いて見えたけれど、言葉の奥に何か硬いものが混じっていた。

 「完成したときは、誇らしかった。夜を徹して計算して、何度もやり直して……やっと形になった。それを教授に見せたら……」
 
 そこで、先生は短く息を吐く。

 「……次の日には、それは“教授の発見”になっていた。俺の名前はどこにもなかった」

 喉の奥で笑ったような音がしたが、それは笑いではなかった。

 私は、何も言えずに本を抱きしめたまま、ただ耳を傾けていた。

 「抗議した。証拠も出した。でも、大学は聞き入れなかった。

 それどころか、俺は“問題を起こす危険な学生”ってことになって、ゼミを追い出された」

 先生の目が、私の手にある本を一瞥する。

 そこに感情はほとんど浮かんでいないけれど、静かな重さがあった。

 「数学科にも居られなくなって……学校に残るには、教育学部に編入するしかなかった」

 「……それで、今……」

 「ああ。目的を失ったまま、流されて……こうして教育実習に来てる」

 その声は、消え入りそうなほど静かだった。

 死人みたい――自分でそう言った先生の表情は、まるで湖面の氷みたいに冷たくて、でも脆そう。

 その表情……何処かで見た事があると思ったら……。

 私と同じ。

 沈黙が落ちた。

 時計の針の音がやけに大きく聞こえる。

 私は抱えていた本をそっと机に戻し、膝の上で手を握りしめた。

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