根暗な貴方は私の光
 彼女に連れられてやって来たのは、長屋の中の甘味処だった。
 さしていた赤い傘を閉じて軒先に立てかけた彼女は、雨に濡れたまま突っ立っていた紬を中に入るよう促す。
 促されるまま甘味処の中に入った紬は、抱えていた荷物を近くにあった机の上に置いた。グシャッと音を立てた鞄は、雨に濡れたせいで変形してしまっている。
 嫌な予感がした。女性が店の奥に行ったことをいいことに紬は鞄の中身を確認する。すると案の定、中身は全て雨に濡れて悲惨なことになっていた。

「嘘……」

 折角用意した着替えは全滅、持っていたはずの水筒は何処かに落としてきてしまったようで跡形もなくなっていた。

「きっとあそこね……」

 水筒は、恐らく先程この場所に連れてきた女性と出会った場所に落としてきてしまったのだろう。
 中身は入っていなかったから落としても何も影響はないのだが、完全に気分が底をついていた紬にとって水筒の紛失すらも辛かった。

「濡れた身体のままでいては風邪を引いてしまうわ。これを使って」

 そう言って彼女は手拭いを紬に差し出した。自身の荷物に目を落としていた紬はすぐ傍に立っている彼女へと視線を移す。
 先程来ていた着物ではなく、もう少し落ち着いた柄の着物に着替えていた。綺麗に整えられていた髪は解かれ、右肩の上で一つに結われている。
 着飾っていない姿ですら美しいなど最早皮肉にすら感じなかった。

「……ありがとう」

 小さく呟きながら差し出された手拭いを受け取る。何の匂いもしない手拭いは少し硬い手触りだが、拭かないまま髪から水を滴らせるよりはずっとマシだった。
 しばらく髪を拭く紬を見守っていた女性は、紬の前の椅子を引いて座った。机の上に頬杖を着いて見上げる彼女は、紬も座るように無言の圧を掛ける。
 その圧を感じ取った紬は渋々彼女の向かいに腰を下ろした。

「私、鏡子(きょうこ)

 何の前触れもなく女性はそう名乗った。それまで感じていた大人の余裕さはなく、無邪気に笑う子供のような微笑みがそっと紬を見つめた。

「……紬」

 正直、鏡子というこの女性に自分自身の名前を教えたくなかった。自分にはないものを持っている彼女に教えてしまえば、名前すらも奪われてしまうような気がしたのだ。
 けれど、鏡子は紬の名前を聞くと満足源に笑うだけだった。

「紬ね。これからよろしく」

 再び差し出された手を紬は迷うこと無く握った。
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