フェアリーヤーンが紡いだ恋 〜A Love Spun with Fairy Yarn〜
 女性トイレの個室に駆け込み、里桜は鍵をかけた。そのまま座り込み、頭を両手で抱え込む。

 鼓動は速く、呼吸は乱れていた。胸が押しつぶされるようで、苦しい。

 (……変だよ、私)

 初めて味わう感情。胸を突き刺す痛みに戸惑い、どうしていいかわからない。

 しばらくして呼吸が落ち着き、里桜は個室を出て、洗面所で冷たい水に手をあてた。

 自分をどうにかコントロールしようとするみたいに。



 廊下に戻り、課へ向かう途中。前から歩いてきたのは――佐藤香。

 俯きがちに軽く会釈した、その瞬間。

 チャリーン……!

 澄んだ音を立てて何かが落ちた。

 思わず屈みこみ、手を伸ばす。拾い上げたのは、500円玉ほどのシンプルなキーチェーン。ライトベージュの生地に、黒糸で『K』の刺繍。

 (わぁ、素敵な編み目……。あれ、これって? でも、フェアリーヤーンにはキーチェーンなんてなかったはず。もしかして、佐藤さんがオーナー?)

 顔を上げると、佐藤は気づかず歩き去ろうとしている。エレベーターを通り過ぎ、階段の方へヒールの音を響かせて。


 「あ、あの……落とされましたよ!」


 慌てて追いかけ、声をかけると、佐藤が振り返った。


 「えっ? あら、気がつかなかったわ。ありがとう」


 差し出す手が、ほんの少し震えていた。受け取った佐藤は、大人びた落ち着いた笑顔を見せる。


 「もしかしてあなた、経費管理課の子?」

 「あっ……はい。素敵な編み目のキーチェーンですね。手芸、なさるんですか?」


 思い切って尋ねると、佐藤は小さく首を振った。


 「これ? 私じゃないの。手先は不器用だから。 ……ナオ君――あっ、松本主任にもらったのよ」



 そう言って再び歩き出した佐藤の胸元で、キラリと光るものが目に入る。

 ……ダイヤの婚約指輪。

 それをネックレスに通して身につけていた。

 その場に立ち尽くす里桜。たった今、押し寄せた情報が頭の中を渦巻く。

 (えっ……? 佐藤さんはオーナーじゃない。キーチェーンは松本主任からの贈り物。
しかも……『ナオ君』って呼んでた。
そして婚約指輪……)

 ハッとした瞬間、呼吸が浅くなる。心臓をギュッと鷲づかみにされたような苦しさ。その上、何度も胸の奥に打ち付けられた衝撃が、やがて氷水の粒となって胃へ落ちていく。その冷たさは波紋のようにじわじわ広がり、内側から全身を凍らせていった。


 「……松本主任……結婚するんだ。
佐藤さんと……」


 かすれた声が、誰にも届かずこぼれ落ちた。



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