フェアリーヤーンが紡いだ恋 〜A Love Spun with Fairy Yarn〜
 バッグを肩に掛け、桜ピンクの新しいストールを片手に持ってドアへ向かう。そのとき、手に軽い違和感が走った。

 何かに引っ張られる感覚。次の瞬間、それが解き放たれ、指先に小さな振動が伝わる。

 ――プツン。

 聞こえるはずのない音が、はっきり耳に届いた気がした。


 「あっ!」


 嫌な予感で足が止まる。ゆっくり視線を下ろすと、ストールの縁がデスクの角に引っかかっていた。

 ステッチが、ほつれている。

 大した傷ではない。けれど胸の奥を鋭く突かれたようで、視界がにじむ。息をのんだ拍子に、一粒の涙が頬を伝い落ちた。

 (どうして……。どうして何もかも上手くいかないんだろう。やっと手にしたストールも、一日で台無し。仕事だって、この課の誰より遅い……。きっと、さっき浮かれたからだ。主任には佐藤さんがいるのに。……誰も好きになんてなりたくなかった。ただ、平穏に暮らしたいだけなのに)

 立ちすくむ彼女に気づいた松本が、早足で近づく。頬に残る涙の跡。そして、ほつれたステッチを一目で察した。

 彼は素早く彼女のデスクに鞄を置き、糸と針を取り出した。その動きは冷静さではなく、彼女を守りたい一心のものからであった。

 ……長い間、胸の奥に閉じ込めてきた想い。上司として隠し通すはずだった気持ちが、涙の跡を見た途端、どうしようもなく溢れ出してしまう。

 椅子に腰を下ろし、デスクライトを灯すと、糸と針の準備を始めた。

 そっとストールを里桜の手から受け取り、慣れた手つきで針を進めていく。

 大きな手。けれど指先は細く長く、ステッチを紡ぐ動きは驚くほど繊細だった。


 「えっ……」


 里桜は思わず息を呑む。

 滑らかに走る針の動きに目を奪われ、彼女は静かに隣の席に腰を下ろした。

 ――まるで、音のない音楽。

 そう感じさせるほど、流れるように進む針と糸。

 ふと松本が視線を上げ、優しく微笑んだ。
さっきまで涙で曇っていた里桜の瞳は、いつの間にか好奇心の光で満たされていた。

 そして――彼女は気づいてしまった。

 今までずっと『女性のオーナーさん』だと思っていたフェアリーヤーン。けれど、この針の動き。この美しいステッチ。自分と同じ特別な糸の色。

 (……そうか。オーナーは、主任だったんだ)

 胸の奥に、ずっと探していた最後のピースが、ようやくぴたりとはまった。

 同じステッチの謎も、ずっと自分を包んでくれた『ぬくもり』の正体も。

 もう、彼を特別じゃないとごまかせなくなっていた。



 会話はなく、ただ静かに時間が流れていく。薄暗い社内。デスクライトの柔らかなオレンジ色が、二人をそっと包み込む。

 その静寂は、もう仕事の延長ではなく、彼と彼女を結ぶ秘密の時間だった。
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