黒き噂の辣腕社長は強がり契約妻に生涯愛を絶やさない
 彼が歩きだすと、体に振動が伝わる。隣の部屋なんてほんの数歩でたどり着くはずなのに、やたら長く感じた。

 ようやく動きが止まり目を開けようとしたところ、額に温かなものが触れた。

「え?」

 目を開けると、ニヤリと笑った彼がいる。

「この状況で目を閉じるなんて、無防備すぎる」

「なっ」

 さっきのは、額に口づけられたのだろう。
 初めてではない。けれど、ここがホテルだと意識して妙に焦ってしまう。

 ベッドの中央にそっと降ろされ、そのまま押し倒される。私に覆いかぶさってきた光毅さんを前に、言葉ひとつ発せないでいた。

 親密な関係になる覚悟なんて、できていない。そんなこと、するつもりもなかった。
 どうすればいいのかわからなくて、さっきの忠告を忘れて再び逃げるように瞼を閉じた。

「だから、少しは警戒しろ。これでは、なにをされても文句は言えないからな」

 その口調に、わずかな苛立ちがまじる。

 不安になりかけたそのとき。再び額に口づけた彼は、隣にドサリと横になった。それから、その広い胸もとに私を抱き寄せる。
 私を抱きしめたまま眠る気だろうかと、そろりと視線を上げた。

「ほら。俺が馬鹿な気を起こす前に寝るぞ」

 彼が自身の胸もとに私の顔を押しつけた。これでは身動きが取れない。呼吸すらしづらくてとんとんと腕を叩くと、わずかに力を緩められる。

「おやすみ、依都」

「お、おやすみ、なさい」

 寝られるわけがないと不満でいっぱいなのに、頬に伝わる規則正しい心臓のリズムと、全身を包み込む温もりに体のこわばりが解れていく。

 恋愛感情がないとはいえ、異性とこんなに体を密着させておいて少しも鼓動を乱さないが彼を恨めしく思う。うろたえているのは私だけという現状が悔しい。

 それなのに、こうされていると徐々に安心感を覚えていく。そんな自分のことが、よくわからなかった。


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