黒き噂の辣腕社長は強がり契約妻に生涯愛を絶やさない
 しばらくした頃、ようやくお暇する時間になって安堵する。

「糸貫庵の方に顔を出してくるつもりだ」

 依都はどうするかと聞かれて、光毅さんに続いて立ち上がった。
 私の立場で仕事中の祖父母に会いに行くのは憚られるため、今のうちにこの辺りを見て回ろうと思う。

「由奈。たくさん話せてよかった。これから大変なるだろうけど、無理だけはしないでね」

「大丈夫だよ。お姉ちゃんも、幸せにね」

 由奈に見送られながら、ふたりで実家を後にした。

 館内へ入っていった光毅さんとは別れ、私はあらためて旅館を外から眺めていた。

 アルバイトとして初めて旅館に足を踏み入れたとき、ずいぶんと緊張したのを覚えている。
 支配人である祖父も女将の祖母も、ほかの従業員と同じように私に接した。孫だからといって決して甘やかさない。その厳しさに、身が引き締まる思いをしたのが懐かしい。

 家族としてではなく従業員の立場になると、働く祖父母の姿は違って見えた。ふたりがいかに糸貫庵を大切にしているかが伝わってきたし、私もその力になりたいと強く願った。

 旅館の正面を通り過ぎ、関係者のみが入れる裏の方へと足を進めた。今日だけは入ってもいいと、事前に許可をもらっている。もちろん従業員の邪魔をするつもりはなく、ただ外から眺めるだけだ。

 空き瓶を出すあたりに近づき、そういえばよくここで休憩に入った大和と話をしたなと懐かしく思う。
 どうすれば糸貫庵を存続させられるのか。今となってはその努力は無駄になったのかもしれないが、少ない経験値で必死に考えて奔走する時間は充実していた。
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