黒き噂の辣腕社長は強がり契約妻に生涯愛を絶やさない
「あちらの方は?」
 早々に立ち去ろうとしていたところ、私から視線を逸らさないまま男性が店主に尋ねた。

「この奥にある、糸貫庵のお孫さんさあ」

「そうでしたか。少し、失礼します」

 店主にそう断った男性がこちらに近づいてくるから、仕方なく立ち止まる。一メートルほど手前まできた彼は、私に名刺を差し出してきた。

「初めまして。宇和島光毅(こうき)と申します」

 素直に受け取り、さっと目を通す。

「宇和島リゾートの、社長……」

 視線を上げて、目の前の男性を見る。
 思わず身構えたのは、条件反射のようなものだ。

「あっ、は、初めまして、広瀬(ひろせ)依都と申します。すみません。私、名刺は持ち合わせていなくて」

「かまいませんよ」

 憎い相手、とまでは言わない。むやみに楯突く気もない。
 ただ、油断をしてはいけないとは思う。

「糸貫庵の方へも、またうかがわせていただきます」

 宇和島リゾートの人間が、説明会のないときもこうして地元に足を運んでいるのは耳にしていた。まさか、社長自らそうしているとは思いもしなかったけれど。

 三十代前半くらいだろうか。若くして責任ある立場を任せられているくらいだから、優秀な人なのだろう。

「それでは」

 店主のもとへ戻っていく宇和島さんの背中を見送っていたところ、女性がこちらを向いていることに気づく。彼女は上品な笑みを浮かべて、私に向けて軽く目礼する。
 慌てて頭を下げ、彼らに背を向けて再び歩き始めた。
< 12 / 178 >

この作品をシェア

pagetop