黒き噂の辣腕社長は強がり契約妻に生涯愛を絶やさない
「悪いな。あんたに恨みはないが」

 ようやくポケットから出した男の手にナイフが握られているのを見て、ひゅっと息をのむ。

 体は硬直して、叫び声すらあげられない。

「宇和島がどんな顔をするのか、楽しみだ」

 私は彼にとって大事なものではない。仕事上、妻でいてくれると都合がよいというだけの存在だ。

 糸貫庵とその周辺の土地が手に入った今、私を亡くしたところで彼の痛手は小さいはず。
 それどころか、最愛の妻を暴漢の手によって殺された悲劇の夫になるのかもしれない。今日はさんざん仲の良好さを見せつけたくらいだから、周囲の同情を集めることだろう。

 ナイフから視線を逸らさないまま、自虐的な考えばかりが浮かぶ。

「恨むなら、宇和島のやろうを恨むんだな」

 腕を振りかぶった男を見て、瞼を閉じて両腕で頭と顔を咄嗟に覆う。
 ザッと男が足を踏み出した音に、体がぶるぶると震える。

「依都!」

 もうだめだと、あきらめそうになっていたそのとき。腕をぐっと惹かれて体が反転する。その勢いに足がよろめいた。

「つっ……」

「邪魔するなよ!」

 小さな呻き声が聞こえた直後に、男の怒声が響く。

 嫌な予感がして、恐る恐る瞼を開けた。
 私を庇ったのは、夫である光毅さんだ。
 彼が前に突き出した左腕は、スーツが裂けてしまっている。

「……き、んん」

 ジワリと滲み始めた赤色が見えて悲鳴を上げそうになったが、光毅さんに口もとを抑えられてくぐもった声になる。
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