甘やかな契約婚 〜大富豪の旦那様はみりん屋の娘を溺愛する〜



 「お兄さん、味醂の匂い、好き?」


 無邪気な笑顔でそう聞いてきた彼女に、俺は言葉を失った。ただ頷くのが精一杯だった。
 彼女は笑いながら、味醂の作り方を教えてくれた。小さな手で丁寧に瓶を磨き、祖母の教えを真剣に聞く姿。

 どこか不器用で、でも真っ直ぐなその姿に、俺の心は初めて揺れた。

 それが俺にとっての──初恋だった。

 あの時の俺には、彼女に自分の気持ちを伝える勇気も、余裕もなかった。ただ、彼女の笑顔と【みやび】の味醂の甘い香りが、俺の心に深く刻まれた。

 それから月日が流れ、母を失い、俺は冷徹な仮面をかぶって生きてきた。彼女のことも、遠い記憶の彼方に押しやったつもりだった。

 だが、【みやび】の蔵が危機に瀕していると知った時、俺は迷わず動いていた。あの味を守りたい。あの記憶を守りたい。そして、彼女を守りたい。心のどこかで、そう思っていたのかもしれない。

 紫月が俺の妻としてこの家に来た時、彼女はあの日のことを覚えていなかった。
 そりゃそうだ。蔵元で出会った、ただの少年のことを、彼女が覚えているはずもない。

 だが、そんなの俺には関係なかった。彼女がここにいる。それだけで、俺の心はあの夏の日に戻るような気がした。


< 41 / 59 >

この作品をシェア

pagetop