境界線の撫で方【弁護士×離婚届】
三 手紙の宛名
昼下がり、郵便受けに少し厚みのある封筒が立っていた。
旧姓あて。黒いボールペンで、見覚えのある字。
部屋に持ち込んで、テーブルの上で封を切る。紙の匂いが立つ。
最初の行は謝罪で、次に近況、最後は「一度、話せないか」。句読点はやっぱりない。
封筒の底に、小さな箱。結婚指輪のケース。私の分ではなく、彼のものだった。
——預けていたままだったか、と遅れて思い出す。
窓辺に箱を置き、手紙を端から端まで読む。二度読みしても、内容は増えない。
私は深呼吸をして、机の引き出しから便箋を一枚出した。
> 拝啓
手紙での連絡をありがとう。
直接会うのは、今はしません。言葉が絡まって、前に進めなくなるから。
必要なものは返します。あなたの指輪と、合鍵。
私は新しい名前で仕事を続けます。こちらの暮らしを、私の方法で整えます。
それが、私の選んだ距離です。
敬具
封を閉じ、レターパックに指輪の箱と鍵を入れる。宛名を書きながら、手が震えないことに気づく。
——撫でる手ではなく、自分の手で。
―――
送付の前に、一応の一般論を確かめたくて、御園生にメールを打つ。件名は「手紙の形式について」。本文には、返送の方法が感情の火種にならないか、事務的に済ませる工夫を尋ねた。
返事は簡潔だった。
> 受け取り確認の手段(追跡・配達証明)を確保すること。
返送物のリストを同封すること。
文面は事実+お願いに留めること。
(余談:大丈夫。よく整っている)
余談に小さく笑う。
追跡番号を書き込み、同封物のリストを一枚添える。「結婚指輪(あなたのもの)」「合鍵×1」。
封を閉じて近所の郵便局まで歩く。夏の光が白く跳ねて、足元の影が薄い。
手続きが終わると、控えが手の中に残った。細長い紙の端を折り、財布のカードポケットに差し込む。
——距離は数字でも測れる、と思うと少し心強い。
―――
夕方、御園生からもう一通。件名はなく、本文は三行だけ。
> 連絡ありがとう。
一般論の範囲で、君の選択は合理的。
余計なお節介だけど、今日の帰り道、なるべく人通りのある道を。
私は「了解」とだけ返し、ついでに会社のサマリーを送る。「明朝、内部説得用Q&A共有」と添えると、「Q6の想定(匿名化の誤解)に一文足したよ」と返ってきた。
仕事のやりとりに紛れて、境界線の手触りが心地いい。
―――
夜、インターホンが一度鳴って、すぐ止んだ。
モニターは黒いまま。風で何かが当たっただけかもしれない。
私は一拍置いて玄関に近づき、チェーン越しに扉の枠を見やる。静かだ。
スマホを開き、元夫からの通知を確認する。未読のまま、増えていない。
御園生のアドバイスが背中に浮かび上がって、玄関の足マットを内側に五センチ引いた。ドアの外の世界と、内の私の線。
ベランダの鉢に水をやり、部屋に戻る。キッチンの隅には、あのマグカップ。今夜も置いておくにして、代わりに新しいマグを箱から出す。白地に小さく、旧姓のイニシャル。
湯気が立ち上がる間、明日の段取りを頭の中に並べる。午前:Q&Aの初稿提出。午後:ビジュアル案の素振り。夕方:クライアントへの確認依頼。
——予定が未来を埋めていく。空席だった席に、少しずつ自分が座るみたいに。
―――
翌日。
朝一でQ&Aの初稿を回すと、折原から「Q2の言い換え秀逸」とコメントが入る。続いて御園生からも一言。「撤回導線の説明、矢印がよく効いてる」。
私は矢印の色を一段薄くして、脚注に「いつでも戻れる」の注釈を足した。
昼休み、ビルの下のコンビニでクリップと付箋を買う。レジ袋を断ると、店員さんが静かに会釈した。その時、入口のチャイムが鳴って御園生が入ってくる。
白いシャツの袖を肘までまくり、ペットボトルの水を手にする。こちらに気づくと、少しだけ眉を上げた。
「偶然」
「偶然ですね」
レジを済ませて、店の外のベンチに並んで座る。人の流れは途切れず、車の音がリズムを刻んでいる。
私はクリップの袋を鳴らして、「昨日、送りました」と言う。
「控えは取った?」
「はい。財布」
「よかった」
御園生は水のキャップを開け、ひと口飲む。
「——彼から、僕にも一度だけ連絡が来た。昔の縁で。取り持ってくれないか、と」
私は顔を向ける。
「何と答えたの」
「不適切、の一言。僕が入る余地はない。そう伝えた。
彼には彼の友人がいるし、君には君の友人がいる。僕は線の外で十分だ」
胸の中で、何かが落ち着いていくのを感じる。
「ありがとう」
「仕事柄、時々、誤解される親切がある。今日は、しない」
風が少し強くなって、前髪が目にかかった。反射的に手が伸びかけて、私は自分で前髪を耳にかける。
御園生は、その動きを見て小さく笑った。
「それでいい」
ベンチの前を、小さな子どもを乗せた自転車が通り過ぎる。ベルの音が二回。
御園生が時計を見て立ち上がる。「午後の会議に戻る。——何かあったら、一般論でよければいつでも」
「うん。一般論で」
別れてから、私は空を見上げる。薄い雲が何層かに重なって、光をやわらげていた。
——撫でられるより、指し示されるより、今は自分で髪を整える瞬間が好きだ。
―――
夕方、追跡サービスの画面に「配達完了」の文字が出た。
私は便箋をもう一枚取り出し、短いメモを書いて封筒に入れる。宛先は自分自身。
> 旧姓の名刺が届くまでのあいだ、今日のことを忘れないで。
境界線は、守るためだけじゃなく、並ぶためにもある。
封を閉じる。差出人欄に旧姓を書くのは、少しおかしくて、少しうれしい。
自分宛の手紙をポストに落とし、帰り道に夕飯の材料を買う。
エレベーターの鏡に映る私は、昨日よりも自然に肩が落ちていた。
部屋に戻ると、窓の外に一番星。
デスクライトを点けると、紙の白さが立ち上がる。ビジュアル案のラフに、薄い鉛筆で一行だけ添えた。
——選べる距離を、誰かと並ぶ余白として描く。
線と余白のあいだに、体温が宿る気がした。
明日はもっと、具体に落とし込んでみよう。
私はパソコンを閉じ、ベッドサイドの手帳を開く。
——撫でる手の先で、私になる。
その行の下に、細い字で足した。
——そして、誰かと並ぶ準備をする。
旧姓あて。黒いボールペンで、見覚えのある字。
部屋に持ち込んで、テーブルの上で封を切る。紙の匂いが立つ。
最初の行は謝罪で、次に近況、最後は「一度、話せないか」。句読点はやっぱりない。
封筒の底に、小さな箱。結婚指輪のケース。私の分ではなく、彼のものだった。
——預けていたままだったか、と遅れて思い出す。
窓辺に箱を置き、手紙を端から端まで読む。二度読みしても、内容は増えない。
私は深呼吸をして、机の引き出しから便箋を一枚出した。
> 拝啓
手紙での連絡をありがとう。
直接会うのは、今はしません。言葉が絡まって、前に進めなくなるから。
必要なものは返します。あなたの指輪と、合鍵。
私は新しい名前で仕事を続けます。こちらの暮らしを、私の方法で整えます。
それが、私の選んだ距離です。
敬具
封を閉じ、レターパックに指輪の箱と鍵を入れる。宛名を書きながら、手が震えないことに気づく。
——撫でる手ではなく、自分の手で。
―――
送付の前に、一応の一般論を確かめたくて、御園生にメールを打つ。件名は「手紙の形式について」。本文には、返送の方法が感情の火種にならないか、事務的に済ませる工夫を尋ねた。
返事は簡潔だった。
> 受け取り確認の手段(追跡・配達証明)を確保すること。
返送物のリストを同封すること。
文面は事実+お願いに留めること。
(余談:大丈夫。よく整っている)
余談に小さく笑う。
追跡番号を書き込み、同封物のリストを一枚添える。「結婚指輪(あなたのもの)」「合鍵×1」。
封を閉じて近所の郵便局まで歩く。夏の光が白く跳ねて、足元の影が薄い。
手続きが終わると、控えが手の中に残った。細長い紙の端を折り、財布のカードポケットに差し込む。
——距離は数字でも測れる、と思うと少し心強い。
―――
夕方、御園生からもう一通。件名はなく、本文は三行だけ。
> 連絡ありがとう。
一般論の範囲で、君の選択は合理的。
余計なお節介だけど、今日の帰り道、なるべく人通りのある道を。
私は「了解」とだけ返し、ついでに会社のサマリーを送る。「明朝、内部説得用Q&A共有」と添えると、「Q6の想定(匿名化の誤解)に一文足したよ」と返ってきた。
仕事のやりとりに紛れて、境界線の手触りが心地いい。
―――
夜、インターホンが一度鳴って、すぐ止んだ。
モニターは黒いまま。風で何かが当たっただけかもしれない。
私は一拍置いて玄関に近づき、チェーン越しに扉の枠を見やる。静かだ。
スマホを開き、元夫からの通知を確認する。未読のまま、増えていない。
御園生のアドバイスが背中に浮かび上がって、玄関の足マットを内側に五センチ引いた。ドアの外の世界と、内の私の線。
ベランダの鉢に水をやり、部屋に戻る。キッチンの隅には、あのマグカップ。今夜も置いておくにして、代わりに新しいマグを箱から出す。白地に小さく、旧姓のイニシャル。
湯気が立ち上がる間、明日の段取りを頭の中に並べる。午前:Q&Aの初稿提出。午後:ビジュアル案の素振り。夕方:クライアントへの確認依頼。
——予定が未来を埋めていく。空席だった席に、少しずつ自分が座るみたいに。
―――
翌日。
朝一でQ&Aの初稿を回すと、折原から「Q2の言い換え秀逸」とコメントが入る。続いて御園生からも一言。「撤回導線の説明、矢印がよく効いてる」。
私は矢印の色を一段薄くして、脚注に「いつでも戻れる」の注釈を足した。
昼休み、ビルの下のコンビニでクリップと付箋を買う。レジ袋を断ると、店員さんが静かに会釈した。その時、入口のチャイムが鳴って御園生が入ってくる。
白いシャツの袖を肘までまくり、ペットボトルの水を手にする。こちらに気づくと、少しだけ眉を上げた。
「偶然」
「偶然ですね」
レジを済ませて、店の外のベンチに並んで座る。人の流れは途切れず、車の音がリズムを刻んでいる。
私はクリップの袋を鳴らして、「昨日、送りました」と言う。
「控えは取った?」
「はい。財布」
「よかった」
御園生は水のキャップを開け、ひと口飲む。
「——彼から、僕にも一度だけ連絡が来た。昔の縁で。取り持ってくれないか、と」
私は顔を向ける。
「何と答えたの」
「不適切、の一言。僕が入る余地はない。そう伝えた。
彼には彼の友人がいるし、君には君の友人がいる。僕は線の外で十分だ」
胸の中で、何かが落ち着いていくのを感じる。
「ありがとう」
「仕事柄、時々、誤解される親切がある。今日は、しない」
風が少し強くなって、前髪が目にかかった。反射的に手が伸びかけて、私は自分で前髪を耳にかける。
御園生は、その動きを見て小さく笑った。
「それでいい」
ベンチの前を、小さな子どもを乗せた自転車が通り過ぎる。ベルの音が二回。
御園生が時計を見て立ち上がる。「午後の会議に戻る。——何かあったら、一般論でよければいつでも」
「うん。一般論で」
別れてから、私は空を見上げる。薄い雲が何層かに重なって、光をやわらげていた。
——撫でられるより、指し示されるより、今は自分で髪を整える瞬間が好きだ。
―――
夕方、追跡サービスの画面に「配達完了」の文字が出た。
私は便箋をもう一枚取り出し、短いメモを書いて封筒に入れる。宛先は自分自身。
> 旧姓の名刺が届くまでのあいだ、今日のことを忘れないで。
境界線は、守るためだけじゃなく、並ぶためにもある。
封を閉じる。差出人欄に旧姓を書くのは、少しおかしくて、少しうれしい。
自分宛の手紙をポストに落とし、帰り道に夕飯の材料を買う。
エレベーターの鏡に映る私は、昨日よりも自然に肩が落ちていた。
部屋に戻ると、窓の外に一番星。
デスクライトを点けると、紙の白さが立ち上がる。ビジュアル案のラフに、薄い鉛筆で一行だけ添えた。
——選べる距離を、誰かと並ぶ余白として描く。
線と余白のあいだに、体温が宿る気がした。
明日はもっと、具体に落とし込んでみよう。
私はパソコンを閉じ、ベッドサイドの手帳を開く。
——撫でる手の先で、私になる。
その行の下に、細い字で足した。
——そして、誰かと並ぶ準備をする。