境界線の撫で方【弁護士×離婚届】

四 傘の幅

朝、ポストに一通の封筒が落ちていた。
宛名は、昨日の私。差出人も、昨日の私。
——自分宛の手紙。

玄関で靴を脱ぎながら、封を切る。便箋の白さが、朝の光を跳ね返す。

> 旧姓の名刺が届くまでのあいだ、今日のことを忘れないで。
境界線は、守るためだけじゃなく、並ぶためにもある。



二行は、思ったより静かに胸に沈んだ。
私は便箋を三つ折りに戻し、手帳の最初のページに挟む。鍵を取って、家を出る。
マンション前の街路樹に、固い緑。夏はまだ背中を向けてくれない。

―――

午前、社内のレビュー。
昨日仕上げたQ&Aの初稿を投影する。折原が頷き、坂梨がキーを打つ音が軽い。
「匿名化の箇所、具体に言い換えたのが効いてるね」
「撤回導線の矢印も、分かりやすいです」と坂梨。
私は頷いて、最後のスライドを切り替えた。ビジュアル案のラフだ。

白地に、二人分の影。
顔も性別も判別できない、人のかたちの素描。二つの影のあいだに、薄い余白がある。
余白の上に、透明なスライダー。左に寄せれば近づき、右に寄せれば離れる。
キャッチは一行。

> 越えない自由、選べる距離。



「恋愛に寄せないのは、狙いどおり?」
折原の問いに、私はうなずく。
「体温は伝える。でも、恋愛に限定しない。並ぶための余白を見せたいです」

午後のクライアントレビューに向け、資料を束ねる。会議室のガラスに、雲が流れるのが映っていた。

―――

外部会議室。
広報部長の隣に、今日は営業本部の白川がいる。新しい顔。肩書きが重いのか、腕組みも重い。

「分かりやすい。が——」白川が、スライド一枚目で腕をほどいた。
「うちは、やさしさで認知を取ってきた。距離の話、機能としては正しい。でも、もっと気持ちに刺さる画がほしい。もう少し近づけないか。例えば手の触れ合いとか、視線が交わる感じとか」

部屋の空気が、少しだけ軋む。
私は息を整え、言葉を選ぶ。
「近づけます。ただ、常に近いだけの画では、離れたい人が置き去りになります。選べるを見せるには、はじめに余白が必要です」

御園生がペン先を上げる。
「法務観点からも補足します。視線や触れ合いは、同意の文脈が前提です。広告は短い。前提を置く時間がないとき、距離のイメージは誤解されやすい。
……だからこそ、選べるのほうを先に認知させた方が、安全で、長期的には信頼されます」

白川は鼻で笑い、手元のボールペンを転がした。
「安全、安全って言うのは分かるけど、心が動かなきゃ買わないよ。エモーションは?」

私は一枚めくる。二案目。
同じ二人の影。今度は余白の中に、小さな日常の断片が薄く浮かぶ。
マグカップ、傘、名札。
触れ合いではなく、並ぶ生活の印。
コピーは少しだけ変えた。

> 体温は、距離の中にある。



広報部長が身を乗り出す。
「……これ、好きです」
白川は無言で首をひねる。
沈黙を、御園生の低い声が埋めた。
「テストしましょう。A案は選べる距離を正面に。B案は距離の中の体温を情緒で。配信を分ければ、反応が数字で見えます」

白川が腕を組み直す。
「数字が出るなら、僕は文句を言わない。やってみよう」

会議が動き出す。必要な撮影の手配、UI側への依頼、文言の整合。
議事が終わるころ、窓の外で急に空が暗くなった。
ブラインドの隙間から、白いものが一瞬走る。雷の輪郭が目の裏に残る。

―――

建物を出ると、雨は本降りになっていた。夏の雨は、予告なく世界を掻き消す。
エントランスの軒先で、私は空を見上げる。傘は、忘れた。

「どうする?」
横で、御園生が透明のビニール傘を一本掲げる。
「駅まで、五分。差し出すのは、傘だけ」

私は笑って、うなずいた。
ビニール傘の骨の中央に、彼の手。反対側の端に、私の手。
肩と肩のあいだに、雨の匂いの余白。

歩き出す。
アスファルトの水たまりに、傘の円が小さく揺れて、二人分の影が並ぶ。
信号待ちで、前髪に水滴がひとつ落ちた。
御園生の指がわずかに動きかけて、止まる。
私は自分で、髪を耳にかける。
——それで、いい。

「さっきの白川さん、強いね」
「強い。正しい時もある。今日は半分」
「半分?」
「数字が答える。僕らの半分が、残りを埋める」

駅の階段の手前で、水たまりが途切れる。
段差に足元が迷って、傘が少し傾ぐ。
彼の手が傘の中心を戻し、言葉が落ちた。
「——名札、ほんとに似合ってる」

唐突な越境。
私は笑う。
「職権外、です」
「はい、雨の中の、越境コメント」

階段を降りると、傘の円がほどける。
改札の前で、私は傘を押し返した。
「ここで。ありがとうございました」
「どういたしまして。……この先は、各自の屋根で」

別れ際、御園生がふと思い出したように言う。
「そうだ、明日。ユーザーインタビューに同席できるかも。距離の選び方を、本人の言葉で聞きたい」
「ぜひ。——本人の言葉、欲しいです」

改札を抜ける。雨の音が、ガラスの向こうに薄くなる。

―――

家に戻ると、郵便受けにもう一通。
薄い官製はがき。追跡の配達完了通知。
私ははがきを手帳に挟み、キッチンのマグカップを見やる。
元夫のマグは、今夜、箱に収めた。薄い紙で包み、ガムテープを一筋。
代わりに、イニシャル入りの白いマグを棚の手前に置く。
湯気が立ち上がって、窓に細い水の筋を作った。

机に座り、今日の議事録を書き出す。
・A/B案で配信分割
・UI:同意変更の導線を仮実装
・ビジュアル小物:傘・名札・マグ(人の体温を示す無言の道具)
・ユーザーインタビュー:明日午後、御園生仮同席

送信を終えると、スマホが震えた。御園生から。

> 件名:明日の件
本文:
インタビュー同席、確定しました。
テーマは「離れたい時に離れられる設計」
余談:雨の日のビニール傘、直径は65cmが一番、並びやすい。



私は笑って返信する。

> 件名:Re: 明日の件
本文:
了解。ガイドを更新します。
余談への返信:65cm、今日、ちょうど良かったです。
以上、傘の幅の話。



送信してから、ふと思いついて、ラフの端に小さく鉛筆で描き足した。
——傘の輪郭。二人の影。
傘の芯は、ちょうど真ん中。肩は触れない。
それでも、濡れなかった。

―――

夜更け、雨は細くなった。
窓を少し開けると、遠くで雷がぐずぐずと名残を言う。
ベッドサイドの手帳に、今日の一行を書く。

——傘の幅で、並ぶ練習。

灯りを落とす。
暗がりの奥で、紙の白さだけがまだそこにある気がした。
撫でる手は、今日は出番がない。
それでも、体温は残った。
距離の中に。
同じ屋根の、真ん中に。
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