境界線の撫で方【弁護士×離婚届】
五 本⼈の言葉
午前十時。会議室のガラスに、昨日の雨の曇りが薄く貼り付いていた。
机の上にはガイドの束。表紙に黒で一行——
> 離れたい時に、離れられる設計
御園生が時計を見てうなずく。
「予定どおり三名。録音は先方同意済み。——今日は言葉を取りにいく日」
私は深呼吸を一つ。ペン先を紙に当てる。
―――
最初のインタビューは、保育士の春名さん(32)。
「最初は、ぜんぶONになってて……。忙しいと、そのままにしちゃうんですよね。だけど、後から減らすのって、なんだか罪悪感がある」
膝の上には小さな女の子。手持ち無沙汰になった指先を、春名さんがそっと包む。撫でない。包むだけ。
——後から減らす負い目。メモに丸。
「じゃあ、最初に最小限で始めるが選べたら?」
「それ、助かる。『ここから先は、あなたが決めてね』って言ってもらえると、気持ちが軽いです」
御園生が淡く相槌を打つ。
「最小限をデフォルトに、は法務的にも正攻法。選ばせる時間を先に置ける」
―――
二人目は、フリーのデザイナー・仁科さん(29)。
「退会のとき、出口が隠れてるのが一番イヤ。『やめたい』を押すと、写真が出てきて『本当にやめるの?』って引き止めるやつ。あれ、弱いところ触ってくる感じ」
「じゃあ、どう言われたい?」
「『ここまでありがとう。戻りたくなったら、いつでも』って。ドアは両開き、みたいな」
——両開きのドア。太線で線を引く。
―――
三人目は、定年後に写真を始めた室田さん(61)。
「『個人が特定できないかたちに加工します』って書いてあっても、具体が見えんのよ。『目線を隠すのか』『場所をぼかすのか』とかね。
……それと、『遠慮なく離れてください』って書いてあると、逆に近づきやすい。逃げ道が見えると、怖くない」
『遠慮なく離れてください』と私は復唱する。
「うん。いつでも戻れるなら、また寄るから」
御園生がノートに短く書き足し、私のほうを見る。
目が合う。うなずきが一つ。——拾え、の合図。
―――
休憩のあいだ、私はホワイトボードに拾った言葉を並べる。
最小限をデフォルト
後から減らす負い目
両開きのドア(戻れる)
具体の見える匿名化
遠慮なく離れてください
横に、昨日のコピーを置く。
> 越えない自由、選べる距離。
体温は、距離の中にある。
マーカーの色を変え、線を一本足した。
> 離れられる安心が、寄り添える余白になる。
「いいね」背後から御園生。
「寄り添うを主語にしないのが、今日の学びに合ってる」
私は笑う。
「それと……撫でるは使わない」
「うん?」
「春名さんは娘さんの手を包むだけにしてた。撫でるは、時々『力』になる。広告で撫でるをやるなら同意の文脈が要る。でも今は並ぶでいく」
「了解」御園生はボードの端に小さな四角——クリップの絵を描いた。
「指し示すだけにしておく。今日は、ね」
―――
午後、社内に戻ってA/B案を修正。
Aは選べる距離をコピーの主役に。
Bは日常の小物を増やし、両開きのドアを絵で示す。
UIの文言は、仁科さんの一言をほぼそのまま。
> ここまで、ありがとう。
戻りたくなったら、いつでも。
折原「それ、効く」。坂梨「『やめる=裏切り』に感じない文言、刺さります」。
夕方クライアント共有。広報部長「『遠慮なく離れてください』の行が好き」。白川「テストの設計はOK、数字で見せて」。
——それでいい。今日は、半分。
―――
帰り支度の頃、御園生から一本の電話。
「両開きのドア、法務の用語を添えておく。再同意の容易性——内部説得で効くから、Q&Aに一行入れて」
「了解。ありがとう」
一拍の沈黙。
「それと余計な話を一つ」
「職権外?」
「うん。今日の君、声がよかった。……撫でるを選ばないって言った時の」
胸の奥が、不意に静かになる。
「一般論じゃないですね」
「一般論じゃない。雨の傘と同じで、たまの越境」
「今日だけ、受け取ります」
通話が切れる。名札が空調の風でほんの少し揺れた。
―――
夜、コンロの上で湯を沸かしながら録音を聞き返す。
春名さんの「後から減らす負い目」。仁科さんの「両開きのドア」。室田さんの「遠慮なく離れてください」。
声には、その人の距離の癖が出る。近づき方、離れ方、所在の示し方。
私はメモにもう一行。
> 撫でるは、守る側の手癖になりやすい。
矢印で言い換える。
> 包む/指す/並ぶ——同意のない撫でるは置かない。
湯が鳴る。白いマグに注ぐ。
スマホが震えた。元夫からの短いメール。
> 受け取った。ありがとう。
返すものがあれば、そのときは連絡する。
句読点が、今日はあった。
私は何も返さない。受け取りの知らせを、受け取るだけにする。
窓辺で乾いたビニール傘が、透明を取り戻している。
私は手帳に今日の一行を書いた。
——離れられる安心が、寄り添える余白になる。
少し迷って、もう一行。
——撫でる手は、物語の最初だけでいい。これからは、並ぶための手を。
机の上にはガイドの束。表紙に黒で一行——
> 離れたい時に、離れられる設計
御園生が時計を見てうなずく。
「予定どおり三名。録音は先方同意済み。——今日は言葉を取りにいく日」
私は深呼吸を一つ。ペン先を紙に当てる。
―――
最初のインタビューは、保育士の春名さん(32)。
「最初は、ぜんぶONになってて……。忙しいと、そのままにしちゃうんですよね。だけど、後から減らすのって、なんだか罪悪感がある」
膝の上には小さな女の子。手持ち無沙汰になった指先を、春名さんがそっと包む。撫でない。包むだけ。
——後から減らす負い目。メモに丸。
「じゃあ、最初に最小限で始めるが選べたら?」
「それ、助かる。『ここから先は、あなたが決めてね』って言ってもらえると、気持ちが軽いです」
御園生が淡く相槌を打つ。
「最小限をデフォルトに、は法務的にも正攻法。選ばせる時間を先に置ける」
―――
二人目は、フリーのデザイナー・仁科さん(29)。
「退会のとき、出口が隠れてるのが一番イヤ。『やめたい』を押すと、写真が出てきて『本当にやめるの?』って引き止めるやつ。あれ、弱いところ触ってくる感じ」
「じゃあ、どう言われたい?」
「『ここまでありがとう。戻りたくなったら、いつでも』って。ドアは両開き、みたいな」
——両開きのドア。太線で線を引く。
―――
三人目は、定年後に写真を始めた室田さん(61)。
「『個人が特定できないかたちに加工します』って書いてあっても、具体が見えんのよ。『目線を隠すのか』『場所をぼかすのか』とかね。
……それと、『遠慮なく離れてください』って書いてあると、逆に近づきやすい。逃げ道が見えると、怖くない」
『遠慮なく離れてください』と私は復唱する。
「うん。いつでも戻れるなら、また寄るから」
御園生がノートに短く書き足し、私のほうを見る。
目が合う。うなずきが一つ。——拾え、の合図。
―――
休憩のあいだ、私はホワイトボードに拾った言葉を並べる。
最小限をデフォルト
後から減らす負い目
両開きのドア(戻れる)
具体の見える匿名化
遠慮なく離れてください
横に、昨日のコピーを置く。
> 越えない自由、選べる距離。
体温は、距離の中にある。
マーカーの色を変え、線を一本足した。
> 離れられる安心が、寄り添える余白になる。
「いいね」背後から御園生。
「寄り添うを主語にしないのが、今日の学びに合ってる」
私は笑う。
「それと……撫でるは使わない」
「うん?」
「春名さんは娘さんの手を包むだけにしてた。撫でるは、時々『力』になる。広告で撫でるをやるなら同意の文脈が要る。でも今は並ぶでいく」
「了解」御園生はボードの端に小さな四角——クリップの絵を描いた。
「指し示すだけにしておく。今日は、ね」
―――
午後、社内に戻ってA/B案を修正。
Aは選べる距離をコピーの主役に。
Bは日常の小物を増やし、両開きのドアを絵で示す。
UIの文言は、仁科さんの一言をほぼそのまま。
> ここまで、ありがとう。
戻りたくなったら、いつでも。
折原「それ、効く」。坂梨「『やめる=裏切り』に感じない文言、刺さります」。
夕方クライアント共有。広報部長「『遠慮なく離れてください』の行が好き」。白川「テストの設計はOK、数字で見せて」。
——それでいい。今日は、半分。
―――
帰り支度の頃、御園生から一本の電話。
「両開きのドア、法務の用語を添えておく。再同意の容易性——内部説得で効くから、Q&Aに一行入れて」
「了解。ありがとう」
一拍の沈黙。
「それと余計な話を一つ」
「職権外?」
「うん。今日の君、声がよかった。……撫でるを選ばないって言った時の」
胸の奥が、不意に静かになる。
「一般論じゃないですね」
「一般論じゃない。雨の傘と同じで、たまの越境」
「今日だけ、受け取ります」
通話が切れる。名札が空調の風でほんの少し揺れた。
―――
夜、コンロの上で湯を沸かしながら録音を聞き返す。
春名さんの「後から減らす負い目」。仁科さんの「両開きのドア」。室田さんの「遠慮なく離れてください」。
声には、その人の距離の癖が出る。近づき方、離れ方、所在の示し方。
私はメモにもう一行。
> 撫でるは、守る側の手癖になりやすい。
矢印で言い換える。
> 包む/指す/並ぶ——同意のない撫でるは置かない。
湯が鳴る。白いマグに注ぐ。
スマホが震えた。元夫からの短いメール。
> 受け取った。ありがとう。
返すものがあれば、そのときは連絡する。
句読点が、今日はあった。
私は何も返さない。受け取りの知らせを、受け取るだけにする。
窓辺で乾いたビニール傘が、透明を取り戻している。
私は手帳に今日の一行を書いた。
——離れられる安心が、寄り添える余白になる。
少し迷って、もう一行。
——撫でる手は、物語の最初だけでいい。これからは、並ぶための手を。