境界線の撫で方【弁護士×離婚届】
六 両開きのドア
午前、宅配の小箱が届いた。
白い箱の蓋を外すと、旧姓の名刺がぴたりとそろって眠っている。角が少し丸い、明るさのある明朝。
一枚、そっと抜いて指でなぞる。インクの黒が紙の繊維に沈んで、音もなく「ここにいる」と言った。
財布に一枚、机のペン立てに一枚。——名札が見せる名乗りなら、名刺は手渡す名乗り。二つの名乗りが、今日から並ぶ。
―――
午後は撮影だ。
白壁とコンクリート床のスタジオに、テープで小さな印を打っていく。足幅、半歩、もう半歩。
小物のトレイには、白いマグと無地の名札、そして透明のビニール傘(直径65cm)。
モデルは、顔の特徴が強すぎない二人。衣装は無地。装飾は抑え、体温は影と物で出す。
「ここまで寄って、止まってください」
私は床のテープを指さす。
「触れない。肩の線が平行になる直前で、止まる」
フォトグラファーがシャッターを切る。ストロボの光が白壁で跳ね、二つの影が重なりそうで重ならない位置に立ち止まる。
「視線は相手に向けず、少し下。——はい、そこで」
シャッター音が続く。
モニターに映るのは、傘の輪郭、並ぶマグ、透明の名札。
触れないのに、近い。わずかな余白が、画の真ん中に呼吸を作っていく。
扉が開き、広報部長と白川が入ってくる。
「今日はB案多めに撮ります」
私が言うと、白川は腕を組み、モニターの前に立った。
「ふむ。……確かに恋愛じゃない。でも、温度はある」
「寄り添うを台詞にしないで、並ぶ生活を置いています」
「数字で勝てるなら、僕はそれでいい」
御園生は少し離れた柱の影に陣取って、ノートを開いている。
メイクさんが前髪を整えるために傘を外した瞬間、モデルが反射で互いの髪に手を伸ばしかけ——私は静かに首を振った。
「髪はヘアメイクに。演出は、足幅と傘の芯で」
御園生がこちらを見て、指先で小さな四角を描く。クリップ。
私はうなずき、紙束の角を留める。指し示すだけ。触れないやり取りが、今日の現場ではよく通った。
「次、名刺のカットいきます」
テーブルに二枚の無地のカードを置き、モデルに交換の直前で止まってもらう。
触れない二枚の紙の端。そのあいだに、光が薄くたまる。
私は画面に短いラベルを出した。
> ここまで、ありがとう。
戻りたくなったら、いつでも。
広報部長が声を漏らす。
「これ、好き」
白川は「なるほど」とだけ言って、腕を下ろした。
―――
合間に、御園生が私の隣に来た。
「今日の止まる位置は、よく効いてる」
「止まる位置を言葉にしただけ。モデルさんが上手いです」
「言葉が先にあると、皆がそこに寄って来られる。——それと、傘。芯が真ん中にあると、分け前が平等になる」
「分け前?」
「濡れない権利の分配。中心を独占しないのは、いい設計だ」
ふいに笑いそうになって、私は視線をモニターに戻す。
「法務の人、比喩が変わらず具体ですね」
「職業病」
―――
夕方、撮影は予定より少し早く終わった。
撤収の音がカーテンのように薄く降りる。外は晴れへと傾いて、スタジオの窓に斜めの光が差していた。
帰り際、建物のエントランスで自動ドアが開く。
左右同時に、静かに。
私は歩きながら、ドアの蝶番の位置に目をやる。真ん中。
「両開き、好きです」
つい口にすると、御園生が横で「うん」と短く返す。
「片開きだと、片方が待つことになる。両開きは、同時に進める」
足元の影が二つ、ドアの境目で一瞬合わさって、すぐにほどけた。
「今日、名刺が来ました」
外に出てから、私は言った。
「おめでとう」
「おめでとうでいいのかな」
「ただいまより、おめでとうが近い日もある」
小さく笑って、私は財布から一枚抜いた。
「——交換はしません。受け取ってください」
御園生が目を瞬く。
「越境?」
「境界線の外から、中へ一枚。職権外のやりとり」
彼は少し考えて、それからうなずいた。
「預かる。名刺はドアだ。いつでも戻れる両開き」
彼のカードケースがわずかに膨らむ音がして、私は胸のどこかが整うのを感じた。
―――
オフィスに戻ると、A/B案の仮仕上がりをUIチームが貼り込んでいた。
スライダーの挙動、同意変更の導線、撤回後の摩擦の少なさ。
「戻りたくなったら、いつでものボタン、角を丸めました」
坂梨が言う。
「押しやすさが増します」
「ありがとう。——離れたい時に、離れられる設計のページ、冒頭に両開きのドアの図を入れて」
「了解です!」
折原の承認も早かった。
「今夜、限定配信でテストに出す。数字は明日の朝」
数字が待っている。
私は資料の目次に、今日拾った言葉を一つだけ足した。
> ドアの蝶番は、真ん中にある。
―――
夜。
帰宅すると、ポストに薄い封筒。紹介弁護士の事務所からだった。
不動産と保険の名義変更、完了の報告。事務的な文面の最後に、短い一行がある。
> 長い手続き、お疲れさまでした。
私は封筒をテーブルに置き、深く息を吐いた。
おめでとうでも、ごめんでもない一行。
今日の御園生の言葉と、少し似ている。
キッチンで湯を沸かす。
白いマグに注いで、窓の外を見やる。
昨日乾いたビニール傘が、玄関に立てかけてある。
——屋根の分け前は、公平に。
スマホが震える。御園生からメール。
> 件名:本日の御礼
本文:
撮影、よかった。
止まる位置を言葉にするのは、君の強さだと思う。
余談:名刺、預かった。職権外の宝物は、薄いほど重い。
私はキーボードに手を置く。
> 件名:Re: 本日の御礼
本文:
こちらこそ。
余談への返信:薄さで重さを運ぶ紙、好きです。
それに、ドアは薄いほど軽く開く。
また明日、数字で会いましょう。
送信してから、手帳を開く。
今日の一行を書く。
——両開きのドアは、同時に進むための設計。
少し考えて、もう一行。
——分け前は真ん中、体温は余白に。
ページを閉じると、部屋の空気が静かに均された。
撫でる手は、やはり出番がない。
それでも、名刺の角と、傘の芯と、ドアの蝶番が、私の真ん中に小さな印を残していた。
白い箱の蓋を外すと、旧姓の名刺がぴたりとそろって眠っている。角が少し丸い、明るさのある明朝。
一枚、そっと抜いて指でなぞる。インクの黒が紙の繊維に沈んで、音もなく「ここにいる」と言った。
財布に一枚、机のペン立てに一枚。——名札が見せる名乗りなら、名刺は手渡す名乗り。二つの名乗りが、今日から並ぶ。
―――
午後は撮影だ。
白壁とコンクリート床のスタジオに、テープで小さな印を打っていく。足幅、半歩、もう半歩。
小物のトレイには、白いマグと無地の名札、そして透明のビニール傘(直径65cm)。
モデルは、顔の特徴が強すぎない二人。衣装は無地。装飾は抑え、体温は影と物で出す。
「ここまで寄って、止まってください」
私は床のテープを指さす。
「触れない。肩の線が平行になる直前で、止まる」
フォトグラファーがシャッターを切る。ストロボの光が白壁で跳ね、二つの影が重なりそうで重ならない位置に立ち止まる。
「視線は相手に向けず、少し下。——はい、そこで」
シャッター音が続く。
モニターに映るのは、傘の輪郭、並ぶマグ、透明の名札。
触れないのに、近い。わずかな余白が、画の真ん中に呼吸を作っていく。
扉が開き、広報部長と白川が入ってくる。
「今日はB案多めに撮ります」
私が言うと、白川は腕を組み、モニターの前に立った。
「ふむ。……確かに恋愛じゃない。でも、温度はある」
「寄り添うを台詞にしないで、並ぶ生活を置いています」
「数字で勝てるなら、僕はそれでいい」
御園生は少し離れた柱の影に陣取って、ノートを開いている。
メイクさんが前髪を整えるために傘を外した瞬間、モデルが反射で互いの髪に手を伸ばしかけ——私は静かに首を振った。
「髪はヘアメイクに。演出は、足幅と傘の芯で」
御園生がこちらを見て、指先で小さな四角を描く。クリップ。
私はうなずき、紙束の角を留める。指し示すだけ。触れないやり取りが、今日の現場ではよく通った。
「次、名刺のカットいきます」
テーブルに二枚の無地のカードを置き、モデルに交換の直前で止まってもらう。
触れない二枚の紙の端。そのあいだに、光が薄くたまる。
私は画面に短いラベルを出した。
> ここまで、ありがとう。
戻りたくなったら、いつでも。
広報部長が声を漏らす。
「これ、好き」
白川は「なるほど」とだけ言って、腕を下ろした。
―――
合間に、御園生が私の隣に来た。
「今日の止まる位置は、よく効いてる」
「止まる位置を言葉にしただけ。モデルさんが上手いです」
「言葉が先にあると、皆がそこに寄って来られる。——それと、傘。芯が真ん中にあると、分け前が平等になる」
「分け前?」
「濡れない権利の分配。中心を独占しないのは、いい設計だ」
ふいに笑いそうになって、私は視線をモニターに戻す。
「法務の人、比喩が変わらず具体ですね」
「職業病」
―――
夕方、撮影は予定より少し早く終わった。
撤収の音がカーテンのように薄く降りる。外は晴れへと傾いて、スタジオの窓に斜めの光が差していた。
帰り際、建物のエントランスで自動ドアが開く。
左右同時に、静かに。
私は歩きながら、ドアの蝶番の位置に目をやる。真ん中。
「両開き、好きです」
つい口にすると、御園生が横で「うん」と短く返す。
「片開きだと、片方が待つことになる。両開きは、同時に進める」
足元の影が二つ、ドアの境目で一瞬合わさって、すぐにほどけた。
「今日、名刺が来ました」
外に出てから、私は言った。
「おめでとう」
「おめでとうでいいのかな」
「ただいまより、おめでとうが近い日もある」
小さく笑って、私は財布から一枚抜いた。
「——交換はしません。受け取ってください」
御園生が目を瞬く。
「越境?」
「境界線の外から、中へ一枚。職権外のやりとり」
彼は少し考えて、それからうなずいた。
「預かる。名刺はドアだ。いつでも戻れる両開き」
彼のカードケースがわずかに膨らむ音がして、私は胸のどこかが整うのを感じた。
―――
オフィスに戻ると、A/B案の仮仕上がりをUIチームが貼り込んでいた。
スライダーの挙動、同意変更の導線、撤回後の摩擦の少なさ。
「戻りたくなったら、いつでものボタン、角を丸めました」
坂梨が言う。
「押しやすさが増します」
「ありがとう。——離れたい時に、離れられる設計のページ、冒頭に両開きのドアの図を入れて」
「了解です!」
折原の承認も早かった。
「今夜、限定配信でテストに出す。数字は明日の朝」
数字が待っている。
私は資料の目次に、今日拾った言葉を一つだけ足した。
> ドアの蝶番は、真ん中にある。
―――
夜。
帰宅すると、ポストに薄い封筒。紹介弁護士の事務所からだった。
不動産と保険の名義変更、完了の報告。事務的な文面の最後に、短い一行がある。
> 長い手続き、お疲れさまでした。
私は封筒をテーブルに置き、深く息を吐いた。
おめでとうでも、ごめんでもない一行。
今日の御園生の言葉と、少し似ている。
キッチンで湯を沸かす。
白いマグに注いで、窓の外を見やる。
昨日乾いたビニール傘が、玄関に立てかけてある。
——屋根の分け前は、公平に。
スマホが震える。御園生からメール。
> 件名:本日の御礼
本文:
撮影、よかった。
止まる位置を言葉にするのは、君の強さだと思う。
余談:名刺、預かった。職権外の宝物は、薄いほど重い。
私はキーボードに手を置く。
> 件名:Re: 本日の御礼
本文:
こちらこそ。
余談への返信:薄さで重さを運ぶ紙、好きです。
それに、ドアは薄いほど軽く開く。
また明日、数字で会いましょう。
送信してから、手帳を開く。
今日の一行を書く。
——両開きのドアは、同時に進むための設計。
少し考えて、もう一行。
——分け前は真ん中、体温は余白に。
ページを閉じると、部屋の空気が静かに均された。
撫でる手は、やはり出番がない。
それでも、名刺の角と、傘の芯と、ドアの蝶番が、私の真ん中に小さな印を残していた。