境界線の撫で方【弁護士×離婚届】
七 数字の声
朝九時。
ダッシュボードのグラフが一斉に色づいた。A/Bテスト——夜通し回した選べる距離(A)と距離の中の体温(B)の結果が、静かに並ぶ。
クリック率:Bが+12%
滞在時間:Bが+9%
信頼度指標(簡易アンケートの「安心して使える」):Aが+15%
同意変更(後から増やす/減らすの操作)率:Aが+18%
私はメモの余白に、矢印を二本引く。
——引き寄せるのはB、支えるのはA。数字が、両開きで話している。
「出そろった?」
折原が湯気の立つマグを持って近づく。
「はい。結論は順路です。最初にBで出会って、Aで安心させる。二枚で一度の扉にします」
「一枚で刺したい白川が、どう言うかだね」
「数字で押します。刺す一枚より、開く二枚」
坂梨が画面をのぞき込み、「刺すより開く、好きです」とこっそり笑った。
―――
午後、意思決定会議。
窓の外は薄曇りで、光が均一だ。長テーブルの向かいに広報部長、斜めに白川。御園生は少し離れてノートを開く。私は一枚目のスライドに、昨日拾った言葉を置いた。
> 離れられる安心が、寄り添える余白になる。
「テストの要約は三行」
私は指でスクリーンの端を指す。
「① 引き寄せはB。② 安心はA。③ 操作(戻る/離れる/近づく)を促すのはA。
つまり、B→Aの順路が、最短で信頼されて選ばれるに至る道です」
白川のボールペンが止まる。
「一枚で全部は無理か」
「全部を一枚に詰めると、どの言葉も薄くなります。扉は二枚で同時に開くほうが、早いです」
次のスライドに、配信の流れを出す。
1stタッチ:B(距離の中の体温)
リタゲ:A(選べる距離)
UI:Aの導線デザイン(ここまで、ありがとう。戻りたくなったら、いつでも)
評価指標:短期(申込/離脱)+中期(再訪/同意更新)
沈黙を、御園生の低い声が埋める。
「法務からは一点。二枚の同意という考え方を内部資料に添えます。最初の同意は最小限で始める。二枚目の同意は後から増やす/減らすが容易。この順路は、規約の読みやすさと実装のわかりやすさにも効きます」
白川が腕を組み直す。
「数字がそう言うなら、乗る。期末のキャンペーンまでに回せるか?」
「撮影は終えています。テキスト差し替えとUI貼り込みで、来週前半には」
広報部長がうなずく。
「じゃあ進行。社内説明は二枚の同意、両開きのドアで通そう」
会議がほどける。
資料を閉じる時、紙の角がふっと浮いて、御園生の指が——止まる。
私は自分でクリップをかける。それで十分だ。
―――
廊下に出ると、空調の風が白く流れた。
エレベーターを待つ間、御園生が小声で言う。
「開く二枚、いい言い方だった」
「数字がくれました。私は並べただけ」
「数字の言葉を、人の言葉に戻すのが得意なんだと思う」
扉が開く。四人ほど降りて、私たちが乗る。鏡面に新しい名札が小さく揺れた。
「——ところで」
降下のタイミングで、御園生が続ける。
「彼から、また一通。写真データのバックアップが手元にある。返す必要があるか、という内容」
私の指がわずかに固くなる。
「どう答えました?」
「一般論として、リンクでの一時共有が安全かつ簡潔と返信する、でいいと思う。ダウンロード期限と閲覧権限を区切って。——君が望むなら、文案を送る」
エレベーターが静かに止まる。
私はうなずく。
「文案、ください。私のほうから送ります。私の設計で」
ロビーに出ると、ガラス越しに白い雲が低く流れていた。
―――
夕方、自席。
私はメールを開き、短く書く。
> 件名:データの件
本文:
ご連絡ありがとう。
必要な写真だけ受け取ります。
下記のリンクは7日後に失効します。閲覧のみ可能です。
こちらから必要分だけダウンロードします。
受領後は、削除してください。
以上の方法で問題ない場合のみ、ご利用ください。
宛先に、元夫のアドレス。
送信ボタンを押した指は、震えない。
数分後、御園生から一通。
> 件名:文案
本文:
いま送った内容で十分。
補足が要るときだけ——
「受領後は削除してください」の一行を。
私は「追記しました」と返す。
―――
帰り道、ビルのエントランス。
自動ドアが今日も同時に開く。蝶番は見えないのに、真ん中で音もなく動く。
私は足を止め、出入りする人の流れをしばらく眺めた。
——開く二枚。言葉が、今日の空気に馴染んでいく。
外に出ると、雲が切れて薄陽。
コンビニで透明のビニール傘を一本買う。65cm。
持ち手の内側に、極細のペンで小さな点を打つ。芯の場所。
分け前は真ん中。
傘を畳んで軽く回すと、点が一瞬だけ光って消えた。
―――
夜、部屋。
リンクのアクセス通知が一つ来て、十分後に消えた。
——終わったものが、終わり方を選んだ。
私はPCのフォルダを閉じ、ゴミ箱を空にする。クリックの音が、薄い。
キッチンで湯を沸かす。
白いマグに注ぎ、窓辺に置く。
スマホが震えた。御園生から。
> 件名:数字、明朝
本文:
深夜帯の二次データ、朝に見る。
余談:芯の位置に印をつける習慣、いいね。
たぶん、君はもう真ん中を知ってる。
私は笑って、短く返す。
> 件名:Re: 数字、明朝
本文:
真ん中は、分け合う場所。
また明日、扉の前で。
手帳を開く。今日の一行を書く。
——引き寄せはB、支えるのはA。開く二枚で、信頼へ。
もう一行、細い字で足す。
——芯の印は小さくていい。見えるのは、並んだ時だけ。
ダッシュボードのグラフが一斉に色づいた。A/Bテスト——夜通し回した選べる距離(A)と距離の中の体温(B)の結果が、静かに並ぶ。
クリック率:Bが+12%
滞在時間:Bが+9%
信頼度指標(簡易アンケートの「安心して使える」):Aが+15%
同意変更(後から増やす/減らすの操作)率:Aが+18%
私はメモの余白に、矢印を二本引く。
——引き寄せるのはB、支えるのはA。数字が、両開きで話している。
「出そろった?」
折原が湯気の立つマグを持って近づく。
「はい。結論は順路です。最初にBで出会って、Aで安心させる。二枚で一度の扉にします」
「一枚で刺したい白川が、どう言うかだね」
「数字で押します。刺す一枚より、開く二枚」
坂梨が画面をのぞき込み、「刺すより開く、好きです」とこっそり笑った。
―――
午後、意思決定会議。
窓の外は薄曇りで、光が均一だ。長テーブルの向かいに広報部長、斜めに白川。御園生は少し離れてノートを開く。私は一枚目のスライドに、昨日拾った言葉を置いた。
> 離れられる安心が、寄り添える余白になる。
「テストの要約は三行」
私は指でスクリーンの端を指す。
「① 引き寄せはB。② 安心はA。③ 操作(戻る/離れる/近づく)を促すのはA。
つまり、B→Aの順路が、最短で信頼されて選ばれるに至る道です」
白川のボールペンが止まる。
「一枚で全部は無理か」
「全部を一枚に詰めると、どの言葉も薄くなります。扉は二枚で同時に開くほうが、早いです」
次のスライドに、配信の流れを出す。
1stタッチ:B(距離の中の体温)
リタゲ:A(選べる距離)
UI:Aの導線デザイン(ここまで、ありがとう。戻りたくなったら、いつでも)
評価指標:短期(申込/離脱)+中期(再訪/同意更新)
沈黙を、御園生の低い声が埋める。
「法務からは一点。二枚の同意という考え方を内部資料に添えます。最初の同意は最小限で始める。二枚目の同意は後から増やす/減らすが容易。この順路は、規約の読みやすさと実装のわかりやすさにも効きます」
白川が腕を組み直す。
「数字がそう言うなら、乗る。期末のキャンペーンまでに回せるか?」
「撮影は終えています。テキスト差し替えとUI貼り込みで、来週前半には」
広報部長がうなずく。
「じゃあ進行。社内説明は二枚の同意、両開きのドアで通そう」
会議がほどける。
資料を閉じる時、紙の角がふっと浮いて、御園生の指が——止まる。
私は自分でクリップをかける。それで十分だ。
―――
廊下に出ると、空調の風が白く流れた。
エレベーターを待つ間、御園生が小声で言う。
「開く二枚、いい言い方だった」
「数字がくれました。私は並べただけ」
「数字の言葉を、人の言葉に戻すのが得意なんだと思う」
扉が開く。四人ほど降りて、私たちが乗る。鏡面に新しい名札が小さく揺れた。
「——ところで」
降下のタイミングで、御園生が続ける。
「彼から、また一通。写真データのバックアップが手元にある。返す必要があるか、という内容」
私の指がわずかに固くなる。
「どう答えました?」
「一般論として、リンクでの一時共有が安全かつ簡潔と返信する、でいいと思う。ダウンロード期限と閲覧権限を区切って。——君が望むなら、文案を送る」
エレベーターが静かに止まる。
私はうなずく。
「文案、ください。私のほうから送ります。私の設計で」
ロビーに出ると、ガラス越しに白い雲が低く流れていた。
―――
夕方、自席。
私はメールを開き、短く書く。
> 件名:データの件
本文:
ご連絡ありがとう。
必要な写真だけ受け取ります。
下記のリンクは7日後に失効します。閲覧のみ可能です。
こちらから必要分だけダウンロードします。
受領後は、削除してください。
以上の方法で問題ない場合のみ、ご利用ください。
宛先に、元夫のアドレス。
送信ボタンを押した指は、震えない。
数分後、御園生から一通。
> 件名:文案
本文:
いま送った内容で十分。
補足が要るときだけ——
「受領後は削除してください」の一行を。
私は「追記しました」と返す。
―――
帰り道、ビルのエントランス。
自動ドアが今日も同時に開く。蝶番は見えないのに、真ん中で音もなく動く。
私は足を止め、出入りする人の流れをしばらく眺めた。
——開く二枚。言葉が、今日の空気に馴染んでいく。
外に出ると、雲が切れて薄陽。
コンビニで透明のビニール傘を一本買う。65cm。
持ち手の内側に、極細のペンで小さな点を打つ。芯の場所。
分け前は真ん中。
傘を畳んで軽く回すと、点が一瞬だけ光って消えた。
―――
夜、部屋。
リンクのアクセス通知が一つ来て、十分後に消えた。
——終わったものが、終わり方を選んだ。
私はPCのフォルダを閉じ、ゴミ箱を空にする。クリックの音が、薄い。
キッチンで湯を沸かす。
白いマグに注ぎ、窓辺に置く。
スマホが震えた。御園生から。
> 件名:数字、明朝
本文:
深夜帯の二次データ、朝に見る。
余談:芯の位置に印をつける習慣、いいね。
たぶん、君はもう真ん中を知ってる。
私は笑って、短く返す。
> 件名:Re: 数字、明朝
本文:
真ん中は、分け合う場所。
また明日、扉の前で。
手帳を開く。今日の一行を書く。
——引き寄せはB、支えるのはA。開く二枚で、信頼へ。
もう一行、細い字で足す。
——芯の印は小さくていい。見えるのは、並んだ時だけ。