境界線の撫で方【弁護士×離婚届】
八 扉の前で
朝、二次データが更新された。
夜更けに走らせた追加テストは、昨日の傾向をそのまま太線にした。
初回接触の想起率:Bが+14%
安心度の再評価(再訪ユーザー):Aが+17%
同意変更後の継続率:A適用群で+22%
数字は、もう迷っていなかった。
——出会いはB、約束はA。二枚でひとつの扉。
私は結果を一枚の図にまとめ、朝会のスクリーンに映した。
「今日から段階拡大。配信はB→Aの順路固定で行きます。UIは両開きのドアを冒頭に置き、同意の二枚を明示」
折原が頷き、坂梨が「行きましょう」と言う。会議室の空気が、扉の蝶番みたいに音なく動いた。
―――
昼前、クライアントの全社会議に接続する。
参加者の名前がタイル状に並び、画面の右上に「参加者128」。
広報部長の挨拶のあと、「言葉の設計」をこちらに振られた。
私はスライドの一枚目にだけ言葉を置く。
> やさしさ=自分で選べること
「守るを名乗るのは簡単です。でも、選ばせるを実装するのは難しい。
だからこそ、離れられる安心を先に置きます。離れ道が見えると、近づくことが怖くない。
そして寄り添いは、相手が選んだ距離の中に自然に生まれます」
二枚目に両開きのドアの図。右手にA(選べる距離)、左手にB(距離の中の体温)。
御園生が続ける。
「法務からは二枚の同意。最小限で始める→いつでも増減できる。規約もUIも、この順路で記述します」
白川が「数字で勝てるなら、やる。——刺す一枚より、開く二枚」と短く言い切り、画面のあちこちで小さく笑いが起きる。
―――
午後。
ローンチ前の『冷たい』テスト——低速回線、画面の小さい端末、片手操作。
撤回導線のアイコンが、ある機種で親指に隠れてしまう。
私はUIチームの席に移動し、角を二ミリ削るように位置をずらした。
坂梨が試す。「親指の下でも、見える。押せる。戻れる」
御園生が近づいて、画面の端だけ見て言う。
「戻れるが見えると、人は遠くまで行ける」
「コピーに、入れたくなる」
「入れないほうが、今日は効く。見えていることが、いちばんの言葉だから」
私はうなずき、画面から一歩下がった。——指さす距離で、十分。
―――
夕方、社内のラウンジ。
御園生が紙袋を差し出す。「差し入れ。糖分は味方」
一枚だけ入っている板チョコ。最初の日と同じメーカー、同じサイズ。
「既視感」
「うん、最初の日の反復。儀式は、同じ温度で続けると効く」
紙コップを両手で包みながら、私は言う。
「——今日、紹介弁護士から手続き完了の報告」
「お疲れさま」
「おめでとうでも、ごめんでもない一行でした」
「良い弁護士だ」
撫でない沈黙。包むだけの沈黙が、しばらくテーブルに置かれた。
「今夜、ローンチです」
「うん。数字が言葉を選ぶ番。君は、それを人の言葉に戻す番」
―――
夜、ローンチ。
カウントダウンのチャットが静かに盛り上がり、時報のあとに公開の緑が点いた。
最初の数分は何も起きない。やがてフィードバックが一件、また一件。
> 離れ方が先に見えるの、安心しました(40代・女性)
ここまでありがとうの文言で、やめるのが怖くなかった。また戻ります(20代・男性)
写真の目線の隠し方が具体で、信用できる(60代・男性)
古いOSでの表示崩れが一つだけ点る。UIチームが走り、二十分で消す。
白川が「復旧OK」のスタンプ。広報部長が内線で短く礼。
数字は、静かに上向いたまま。
御園生からチャット。
> 撤回後のフリクション低減策、効いてる
私は既読をつけ、仮名刺の束を指でそろえる。——薄いほど重い紙。今日も角はまっすぐだ。
―――
日付が変わる少し前。
エレベーターの前は人が少ない。扉が開くと、御園生が中にいた。
「おつかれさま」
「おつかれさま」
数階分の沈黙。床のランプが降りていくのを、並んで見る。
——触れない。寄りかからない。並ぶ。
「……最初の日、頭を撫でたね」御園生が言う。
「もう、しない」
「うん。もう、いらない」
扉が開いて、ロビー。自動ドアの前で足が揃う。
彼が風を見るみたいに言った。
「いつか、撫でてと言われる日が来たら、その時は一度だけ。——合図のあとで」
「合図?」
「君のほうから、手帳に書いて見せてくれたら。『今は撫でて』って」
胸の奥で、何かが軽く笑う。
「難しい宿題」
「難しいから、合図がいる」
自動ドアが同時に開く。外の空気は、気持ちだけ秋に寄っていた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
別々の方角へ歩き出す。足元の影が長く伸び、舗道の真ん中でほどけた。
―――
部屋に戻る。
机の上の手帳を開き、ペンを置く。——今日の一行。
> 開く二枚で、やさしさは実装される。
少し迷って、余白の下に、もう一行。
> 今は撫でて、という合図は、私が選ぶ。
ペン先が止まる。
窓の外、遠くの交差点で信号が変わる音が小さく跳ねた。
撫でる手は、今日も出番がない。
それでも、扉は開き続けている。真ん中の蝶番は見えないまま、静かに。
夜更けに走らせた追加テストは、昨日の傾向をそのまま太線にした。
初回接触の想起率:Bが+14%
安心度の再評価(再訪ユーザー):Aが+17%
同意変更後の継続率:A適用群で+22%
数字は、もう迷っていなかった。
——出会いはB、約束はA。二枚でひとつの扉。
私は結果を一枚の図にまとめ、朝会のスクリーンに映した。
「今日から段階拡大。配信はB→Aの順路固定で行きます。UIは両開きのドアを冒頭に置き、同意の二枚を明示」
折原が頷き、坂梨が「行きましょう」と言う。会議室の空気が、扉の蝶番みたいに音なく動いた。
―――
昼前、クライアントの全社会議に接続する。
参加者の名前がタイル状に並び、画面の右上に「参加者128」。
広報部長の挨拶のあと、「言葉の設計」をこちらに振られた。
私はスライドの一枚目にだけ言葉を置く。
> やさしさ=自分で選べること
「守るを名乗るのは簡単です。でも、選ばせるを実装するのは難しい。
だからこそ、離れられる安心を先に置きます。離れ道が見えると、近づくことが怖くない。
そして寄り添いは、相手が選んだ距離の中に自然に生まれます」
二枚目に両開きのドアの図。右手にA(選べる距離)、左手にB(距離の中の体温)。
御園生が続ける。
「法務からは二枚の同意。最小限で始める→いつでも増減できる。規約もUIも、この順路で記述します」
白川が「数字で勝てるなら、やる。——刺す一枚より、開く二枚」と短く言い切り、画面のあちこちで小さく笑いが起きる。
―――
午後。
ローンチ前の『冷たい』テスト——低速回線、画面の小さい端末、片手操作。
撤回導線のアイコンが、ある機種で親指に隠れてしまう。
私はUIチームの席に移動し、角を二ミリ削るように位置をずらした。
坂梨が試す。「親指の下でも、見える。押せる。戻れる」
御園生が近づいて、画面の端だけ見て言う。
「戻れるが見えると、人は遠くまで行ける」
「コピーに、入れたくなる」
「入れないほうが、今日は効く。見えていることが、いちばんの言葉だから」
私はうなずき、画面から一歩下がった。——指さす距離で、十分。
―――
夕方、社内のラウンジ。
御園生が紙袋を差し出す。「差し入れ。糖分は味方」
一枚だけ入っている板チョコ。最初の日と同じメーカー、同じサイズ。
「既視感」
「うん、最初の日の反復。儀式は、同じ温度で続けると効く」
紙コップを両手で包みながら、私は言う。
「——今日、紹介弁護士から手続き完了の報告」
「お疲れさま」
「おめでとうでも、ごめんでもない一行でした」
「良い弁護士だ」
撫でない沈黙。包むだけの沈黙が、しばらくテーブルに置かれた。
「今夜、ローンチです」
「うん。数字が言葉を選ぶ番。君は、それを人の言葉に戻す番」
―――
夜、ローンチ。
カウントダウンのチャットが静かに盛り上がり、時報のあとに公開の緑が点いた。
最初の数分は何も起きない。やがてフィードバックが一件、また一件。
> 離れ方が先に見えるの、安心しました(40代・女性)
ここまでありがとうの文言で、やめるのが怖くなかった。また戻ります(20代・男性)
写真の目線の隠し方が具体で、信用できる(60代・男性)
古いOSでの表示崩れが一つだけ点る。UIチームが走り、二十分で消す。
白川が「復旧OK」のスタンプ。広報部長が内線で短く礼。
数字は、静かに上向いたまま。
御園生からチャット。
> 撤回後のフリクション低減策、効いてる
私は既読をつけ、仮名刺の束を指でそろえる。——薄いほど重い紙。今日も角はまっすぐだ。
―――
日付が変わる少し前。
エレベーターの前は人が少ない。扉が開くと、御園生が中にいた。
「おつかれさま」
「おつかれさま」
数階分の沈黙。床のランプが降りていくのを、並んで見る。
——触れない。寄りかからない。並ぶ。
「……最初の日、頭を撫でたね」御園生が言う。
「もう、しない」
「うん。もう、いらない」
扉が開いて、ロビー。自動ドアの前で足が揃う。
彼が風を見るみたいに言った。
「いつか、撫でてと言われる日が来たら、その時は一度だけ。——合図のあとで」
「合図?」
「君のほうから、手帳に書いて見せてくれたら。『今は撫でて』って」
胸の奥で、何かが軽く笑う。
「難しい宿題」
「難しいから、合図がいる」
自動ドアが同時に開く。外の空気は、気持ちだけ秋に寄っていた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
別々の方角へ歩き出す。足元の影が長く伸び、舗道の真ん中でほどけた。
―――
部屋に戻る。
机の上の手帳を開き、ペンを置く。——今日の一行。
> 開く二枚で、やさしさは実装される。
少し迷って、余白の下に、もう一行。
> 今は撫でて、という合図は、私が選ぶ。
ペン先が止まる。
窓の外、遠くの交差点で信号が変わる音が小さく跳ねた。
撫でる手は、今日も出番がない。
それでも、扉は開き続けている。真ん中の蝶番は見えないまま、静かに。