境界線の撫で方【弁護士×離婚届】
九 合図のあとで
ローンチから一週間。
ダッシュボードの折れ線は、ゆっくり右肩に進んでいた。Bで出会い、Aで戻る。戻れるから遠くへ行ける。
社内の「やさしさ=自分で選べること」は合言葉になり、撤回後の再訪率は予測を超えた。
夜、オフィスの灯りがまばらになった頃、私は資料の角をクリップで留め、PCを閉じる。
廊下で御園生とすれ違い、軽く会釈を交わした。
「おつかれさま。——数字、よく育ってる」
「うん。たぶん、やっと扉の前に立てた感じです」
―――
帰り際、ビルのラウンジに寄り道した。
丸テーブルにノートPCを置き、私は椅子に座る。御園生は立ったまま、反対側に手を置いた。天井のペンダントライトが、テーブルの輪郭を静かに縁取る。
「もう少しだけ、今日を整えたい」
そう言って私はPCをパタンと閉じ、手帳を開いた。付箋を一枚、ちぎる。ペン先で短く書く。
——今は撫でて。
付箋を手帳の端に貼り、頁を傾けて見せる。
御園生は一度だけうなずき、立ったまま、ためらいのないやさしさで掌を一度、私の頭に置いた。
くしゃ、と。重さも圧もなく、合図の上にだけ体温が降りる。
すぐに手は離れ、かわりに、私の隣へひらかれた。
「——ここからは、隣の手で」
「うん。もう、分かってる」
テーブルの端で名刺の角が小さく光り、ガラスの外を雨粒が細く走った。
撫でる手はそこで役目を終え、静かな余白だけが残る。
―――
ロビーに降りる。
自動ドアが両開きでひらき、夜の気配が薄く流れ込む。
私はその先へ、まっすぐ進んだ。背中に、さっきの掌の温度が、静かに残っている。
―――
部屋に戻る。
机の上の手帳を開き、今日の一行を書く。
——合図のある一度だけで、私たちは対等になった。
ペン先が止まる。
窓の外、遠くの交差点で信号が変わる音が小さく跳ねた。
撫でる手は、もう出番を終えた。
これからは、並ぶための手で。
ダッシュボードの折れ線は、ゆっくり右肩に進んでいた。Bで出会い、Aで戻る。戻れるから遠くへ行ける。
社内の「やさしさ=自分で選べること」は合言葉になり、撤回後の再訪率は予測を超えた。
夜、オフィスの灯りがまばらになった頃、私は資料の角をクリップで留め、PCを閉じる。
廊下で御園生とすれ違い、軽く会釈を交わした。
「おつかれさま。——数字、よく育ってる」
「うん。たぶん、やっと扉の前に立てた感じです」
―――
帰り際、ビルのラウンジに寄り道した。
丸テーブルにノートPCを置き、私は椅子に座る。御園生は立ったまま、反対側に手を置いた。天井のペンダントライトが、テーブルの輪郭を静かに縁取る。
「もう少しだけ、今日を整えたい」
そう言って私はPCをパタンと閉じ、手帳を開いた。付箋を一枚、ちぎる。ペン先で短く書く。
——今は撫でて。
付箋を手帳の端に貼り、頁を傾けて見せる。
御園生は一度だけうなずき、立ったまま、ためらいのないやさしさで掌を一度、私の頭に置いた。
くしゃ、と。重さも圧もなく、合図の上にだけ体温が降りる。
すぐに手は離れ、かわりに、私の隣へひらかれた。
「——ここからは、隣の手で」
「うん。もう、分かってる」
テーブルの端で名刺の角が小さく光り、ガラスの外を雨粒が細く走った。
撫でる手はそこで役目を終え、静かな余白だけが残る。
―――
ロビーに降りる。
自動ドアが両開きでひらき、夜の気配が薄く流れ込む。
私はその先へ、まっすぐ進んだ。背中に、さっきの掌の温度が、静かに残っている。
―――
部屋に戻る。
机の上の手帳を開き、今日の一行を書く。
——合図のある一度だけで、私たちは対等になった。
ペン先が止まる。
窓の外、遠くの交差点で信号が変わる音が小さく跳ねた。
撫でる手は、もう出番を終えた。
これからは、並ぶための手で。