臆病なあなたの、不完全な愛し方
前の会社で自分が秘書に抜擢されたときは、単に役員に気に入られただけだと思っていた。
しかし、伊山のサポートをしながら、案外自分には秘書業務が向いているのかもしれないと真奈美は感じ始めていた。

ここ数日でわかったことがある。

伊山は没頭すると食事を忘れる。
そして、休むことも忘れる。
仕事への集中力と熱意が尋常ではない伊山には、その反動で生活リズムや健康管理を犠牲にしてしまうという弱点があった。

有能に見えて、実は脆く危うい一面もあるのだと知り、自分が支えなければという思いが真奈美の中でさらに強くなった。

月曜日に真奈美が出社したとき、オフィスはまだ真っ暗だった。
伊山がいないと判断した真奈美は、ブラインドのスリットを調整し、鼻歌をうたいながら、軽く床の掃除を始めた。

すると、隅の方でなにかが動く気配を感じた。
慌てて距離をとると、かすかにうめき声が聞こえた。

「……まぶしい」
「え? 伊山さん?」

伊山がソファーで横になっていた。
両腕で目元を覆い、差し込む朝日を遮っている。

「伊山さん、おはようございます」

近づいて真奈美が声をかけると、伊山が薄目を開けた。

「何時?」
「もうすぐ九時です」
「しまった……」

伊山はのろのろと身を起こすと、俯いて背中を丸めた状態で静止した。

「お茶を淹れてきますね」

真奈美が給湯室で緑茶を淹れて戻ると、先ほどよりは目が覚めたらしい伊山が、ソファーの右側に腰かけていた。

黒いパーカーに黒いパンツの全身黒コーデが、見慣れた伊山のイメージとはかけ離れていて、まるで別の男性がそこにいるように見えた。

「どうぞ」
「……ありがとう」

真奈美は最大限左端に寄って、浅くソファーに腰かけた。

「星野がいる、ってことは月曜日……」
「もしかして昨日からずっと仕事してたんですか?」
「うん」
「今朝は何時に寝たんでしょうか」
「たぶん五時くらい」
「……土曜日はさすがに休みましたよね?」

伊山は一時(いっとき)沈黙し、「ちゃんと家で寝た」と答えた。

「……仕事してたんですね」

伊山の意識はぼんやりしているようだった。

真奈美はパソコンを立ち上げ、今日の伊山のスケジュールを確認した。
幸い、打ち合わせは入っていなかった。

「伊山さん、今日は打ち合わせがないので、一度帰ってちゃんと寝てください」

伊山が気だるげな目で真奈美を見た。
いつもの精悍な顔つきではない、疲労が滲んだ物憂げな表情に、真奈美は色気を感じてドキッとした。

伊山は、なにか言いたげに口を開いたあと、観念したように「わかった」と言うと、立ち上がった。
立ちくらみだろうか、伊山が少しよろけたところを、真奈美が支えた。
布地越しでもわかる、鍛えられた胸の筋肉に、真奈美は息をのんだ。

「大丈夫ですか?」

支えたまま見上げると、伊山の目はしっかりと開かれ、意識もはっきりしたように見えた。

「大丈夫だ」

ほっとして真奈美が離れると、伊山はスタスタと扉の方に歩き出した。

「悪い、星野が帰るまでには戻る」
「わかりました。ゆっくり寝てください」

真奈美が入り口まで見送るも、一度も振り返らずに伊山は出ていった。
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