臆病なあなたの、不完全な愛し方
十月になった。
駅からオフィスへ向かう途中、街路樹に咲き始めたオレンジ色の花の香りに、ようやくそれが金木犀だったのだと真奈美は気づいた。
月曜日の一件を反省したのか、あれ以来、伊山の顔色が睡眠不足とは無縁に見え、真奈美はほっとしていた。
「あ、今日はあいつが来る日だった。入り口開けとくの忘れたな」
太陽が西に傾き始めた頃、伊山が思い出したように言った。
「どなたですか?」
「ちょうど来た」
入り口のドアの重い開閉音が聞こえ、執務スペースに見知らぬ男性が入ってきた。
「お世話になっております。月初業務にやってまいりました」
爽やかな笑顔をたたえ、ネイビーのスーツを着こなす姿に、「モテそうな人」と真奈美は思った。
伊山が精悍な顔つきであるのに対して、その人は端正という表現が相応しい容貌だった。
「はじめまして。税理士の宮前です」
税理士という単語ですべてを把握した真奈美は、自己紹介を済ませ、宮前をどこに案内するべきか判断を仰ぐために伊山を見た。
伊山は、呆れた顔をしていた。
「だから、ここに入る前にまずインターホンを鳴らせと何回言えばいいんだ」
「大変失礼しました。いつもの癖で」
「その営業スマイルもやめろ」
どうやら二人は親しい仲のようだと真奈美は理解した。
「勝手はわかってるから、お茶だけ出してやって」
伊山の指示に、真奈美は給湯室に向かった。
お茶を淹れて戻ると、宮前は真奈美から一人分開けた左隣のスペースでパソコンを立ち上げていた。
「伝え忘れてたが、会社の経理業務は宮前にお願いしてるんだ」
「そうだったんですね。プロの方にやっていただけて安心です」
真奈美の言葉に、宮前がにっこりと微笑んだ。
伊山がクライアントからの電話で会議室に入ると、宮前が真奈美に声をかけた。
「星野さん、会社はどうですか?」
「楽しくお仕事させていただいてます」
「それはよかったです。伊山にいじめられてない?」
茶目っ気ある問いに、真奈美は笑って答えた。
「大丈夫です。お二人はとても仲がいいんですね」
「高校からの付き合いです」
「それはすごいですね。私は高校の友達とは疎遠になってしまいました」
「僕も、続いてるのは伊山だけですよ。ところで」
宮前が言葉を切って、真奈美と改めて目を合わせた。
「伊山は相変わらず仕事中毒ですか?」
先ほどとは違う真面目な問いに、真奈美も言葉を選びながら答えた。
「毎日、結構遅くまでお仕事されてるみたいです。『社長に残業という概念はない』とおっしゃってましたから……」
宮前の顔が曇った。
「あ、でも最近はちゃんと睡眠時間を確保されてるみたいです。クマが消えたので」
真奈美の言葉に、宮前は一瞬目を見開き、やがて安心したように微笑んだ。
「よく見てるんだね」
「え!」
「伊山が星野さんを選んだのは正解だったみたいだ」
「そう、だといいんですけど……」
なぜか気恥ずかしくなり、真奈美は宮前から視線を外した。
伊山が会議室から出る音がした。
「じゃあ、これからも伊山をよろしくお願いしますね、星野さん」
税理士の顔に戻った宮前に、真奈美は戸惑いながらも深く頷いた。
駅からオフィスへ向かう途中、街路樹に咲き始めたオレンジ色の花の香りに、ようやくそれが金木犀だったのだと真奈美は気づいた。
月曜日の一件を反省したのか、あれ以来、伊山の顔色が睡眠不足とは無縁に見え、真奈美はほっとしていた。
「あ、今日はあいつが来る日だった。入り口開けとくの忘れたな」
太陽が西に傾き始めた頃、伊山が思い出したように言った。
「どなたですか?」
「ちょうど来た」
入り口のドアの重い開閉音が聞こえ、執務スペースに見知らぬ男性が入ってきた。
「お世話になっております。月初業務にやってまいりました」
爽やかな笑顔をたたえ、ネイビーのスーツを着こなす姿に、「モテそうな人」と真奈美は思った。
伊山が精悍な顔つきであるのに対して、その人は端正という表現が相応しい容貌だった。
「はじめまして。税理士の宮前です」
税理士という単語ですべてを把握した真奈美は、自己紹介を済ませ、宮前をどこに案内するべきか判断を仰ぐために伊山を見た。
伊山は、呆れた顔をしていた。
「だから、ここに入る前にまずインターホンを鳴らせと何回言えばいいんだ」
「大変失礼しました。いつもの癖で」
「その営業スマイルもやめろ」
どうやら二人は親しい仲のようだと真奈美は理解した。
「勝手はわかってるから、お茶だけ出してやって」
伊山の指示に、真奈美は給湯室に向かった。
お茶を淹れて戻ると、宮前は真奈美から一人分開けた左隣のスペースでパソコンを立ち上げていた。
「伝え忘れてたが、会社の経理業務は宮前にお願いしてるんだ」
「そうだったんですね。プロの方にやっていただけて安心です」
真奈美の言葉に、宮前がにっこりと微笑んだ。
伊山がクライアントからの電話で会議室に入ると、宮前が真奈美に声をかけた。
「星野さん、会社はどうですか?」
「楽しくお仕事させていただいてます」
「それはよかったです。伊山にいじめられてない?」
茶目っ気ある問いに、真奈美は笑って答えた。
「大丈夫です。お二人はとても仲がいいんですね」
「高校からの付き合いです」
「それはすごいですね。私は高校の友達とは疎遠になってしまいました」
「僕も、続いてるのは伊山だけですよ。ところで」
宮前が言葉を切って、真奈美と改めて目を合わせた。
「伊山は相変わらず仕事中毒ですか?」
先ほどとは違う真面目な問いに、真奈美も言葉を選びながら答えた。
「毎日、結構遅くまでお仕事されてるみたいです。『社長に残業という概念はない』とおっしゃってましたから……」
宮前の顔が曇った。
「あ、でも最近はちゃんと睡眠時間を確保されてるみたいです。クマが消えたので」
真奈美の言葉に、宮前は一瞬目を見開き、やがて安心したように微笑んだ。
「よく見てるんだね」
「え!」
「伊山が星野さんを選んだのは正解だったみたいだ」
「そう、だといいんですけど……」
なぜか気恥ずかしくなり、真奈美は宮前から視線を外した。
伊山が会議室から出る音がした。
「じゃあ、これからも伊山をよろしくお願いしますね、星野さん」
税理士の顔に戻った宮前に、真奈美は戸惑いながらも深く頷いた。