臆病なあなたの、不完全な愛し方
真奈美が伊山の会社で働くようになってから、三週目の火曜日の午後。

コールから二回目で真奈美が電話に出ると、スマートフォンの向こうから、男性の怒声が飛んできた。
突然のことにショックで言葉を失ったが、電話を任された身としての矜持でなんとか心を保ち、相手の言葉に耳を傾けた。

着信時にディスプレイに表示された名前は、数時間前に打ち合わせがキャンセルとなったクライアントのものであった。
ひどく酔っているようで、まともに会話できる状態ではないが、クライアントである以上、無下に切ることはできない。

次々と浴びせられる罵声に、真奈美の身体は冷え、呼吸が浅くなっていった。スマートフォンを持つ手が震えている。
こんなことは初めてで、一体どうすればいいかわからない。

そのとき、目の前にメモ書きが出された。

『伊山に代わるって言って保留にして』

いつの間にか右隣りに伊山が立っており、真奈美と目が合うと、優しく微笑んだ。
その優しい表情に励まされ、カラカラに乾いた喉からなんとか声を絞り出し、真奈美は保留を押した。

「伊山さん! ごめんなさい!」
「大丈夫だ。星野はなにも悪くない」
「でも私、なにも言えなくて、どうしていいかわからなくて」

パニックになってしまった真奈美は、伊山を見つめ、ただ浅い呼吸を繰り返すしかできなかった。
息が苦しく、頭が回らない。

「大丈夫だから」

そう言って伊山がもう一度微笑んだとき、真奈美のやわらかな髪の毛が、心地よい重みで押さえられた。
触れられた場所から、伊山の体温が伝わってくる。

「大丈夫だから。俺に任せなさい」

真奈美の顔をのぞき込み、いつもの頼りになる笑顔で伊山が言った。
伊山を見つめたまま、真奈美は小さく頷いた。パニックはおさまっていた。

空いた手でスマホを掴んで保留を解除すると、伊山はスマートフォンを耳に当てた。

「お電話代わりました、伊山です」

伊山の大きな手は、真奈美の頭を控えめになでると、名残惜しそうに離れていった。

声がだんだんと遠ざかり、伊山が会議室に入ったのがわかった。
厚くはない壁の向こうから、伊山の声がかすかに聞こえる。

真奈美は大きく深呼吸した。
ひりついた喉を潤すために、カップに残っていたお茶を全部飲みほした。

再び何度か深呼吸し、乱れた呼吸を整えた。
ゆっくり吸って、吐いて……を繰り返している間、いまさっき起きた出来事がまざまざとよみがえった。

「頭ポンって……」

真奈美は両手を頬にあて、俯いた。
いま自分がどんな顔をしているのかわからないが、伊山に見られてはいけない顔であることは想像できた。

伊山に触れられたところから、体全体に熱が伝播したかのように思えた。
今すぐに冷たいシャワーを浴びたい気分だ。顔が、体が、熱い。

「星野、大丈夫か?」

電話が終わったらしい伊山が、真奈美のそばに戻ってきた。
伊山の気配だけでなく体温まで感じ取ってしまいそうなくらい、全身が敏感になっている。

真奈美はしきりに首を縦に振った。頑として顔を上げようとはしない。

右側に感じていた伊山のぬくもりが、一時遠のいたかと思うとまた近づき、俯いた真奈美の視界に、伊山の引きしまった前腕が入った。
真奈美の心臓が跳ねた。

「ココア、置いておくな。しばらく休憩していいから。俺はちょっと出てくる」

手に持った白いカップをデスクに置くと、伊山はその場を離れた。
向けられた優しいテノールの声に、真奈美はゾクッとした。

ほんの数秒、頭に手が振れただけなのに。

心臓が早鐘をうつように激しく鼓動している。
自分の体なのに、まるでコントロールが効かない。

背後で、入り口のドアの重い開閉音が聞こえた。

真奈美はオフィスチェアから立ち上がり、まるで迷路に迷い込んだハムスターのように、執務スペース内をうろうろした。

数分後、だんだんと冷静さを取り戻した頭が、ある事実を明滅させた。

「伊山さんのは、嫌じゃなかった」

伊山と再会した日、真奈美は一つだけ嘘をついた。
前の会社を辞める決定的な理由となった出来事を、口にするのもおぞましかったからだ。

あの日、真奈美のところにやってきた役員は、「可愛いね」と言いながら真奈美の頭に手を置いた。
身の毛がよだつのを感じた後のことは、あまり覚えていない。
気が付くと、人事部長の前で、退職を宣言していた。

「伊山さんのは、嫌じゃなかった」

もう一度、確かめるように真奈美はつぶやいた。

あのとき、あの大きな手にもっと触れていてもらいたいと思ってしまったし、今はあの大きな手に触れられることを想像して、身体の奥がざわめいている。

自分の席に戻ると、伊山が作ってくれたココアが目に入った。
一口飲むと、大好きな甘い香りとまろやかな味が、身も心も癒してくれた。

「私がココア好きなの、覚えててくれた……」

伊山は甘いものを好まない。
最初に給湯室を確認したときは、緑茶とほうじ茶のティーバッグとドリップバッグコーヒーしか置かれていなかった。
しかし、いつの間にかそこにスティックココアの箱が追加されていた。

早速、真奈美があたたかいココアをいれて執務スペースに戻ると、ちょうど外出する伊山とすれ違った。
真奈美の手元を見た伊山が、「ココア好きだったよな」と笑った。

思い出して、真奈美の口元は緩んだ。

真奈美のために、スティックココアの箱を買い物かごにいれる伊山を想像して、胸が甘くうずいた。

前の会社で部下として甘えていたときも、伊山はたくさん真奈美を気遣ってくれた。
冬の夜に、あたたかいココアを買ってくれたこともあった。
でもあのときは、ただ嬉しいだけだった。

こんな、胸が切なくなるような愛しさは感じなかった。

「私、伊山さんのことが好きだ……」

真奈美は、ココアが入ったカップを両手でそっと包み込んだ。
まるで大事な宝物を抱きしめるように。
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