臆病なあなたの、不完全な愛し方
五
「本当にとろける。ツヤツヤだ」
リップブラシと呼ぶらしい綿棒のようなもので星野がクライアントの商品を唇に塗った。
目のやり場に困り、伊山は箱の形状を確認するふりをした。
星野がプロデュースの仕事も手伝うようになってから、届いたクライアントの商品を二人で確認するのが恒例となっていた。
社員用デスクの空きスペースに並んで仕事をする時間は、伊山に束の間の癒しを与えてくれた。
「じゃあ、伊山さんも塗ってください」
「は?」
口紅とリップブラシを両手に持った星野が、さも当然のように言った。
「実際に塗ってみないと、商品のよさがわからないじゃないですか」
「いや、星野が実感したならそれで十分だろ」
「メインプロデューサーは伊山さんですよ。それに、あちらの社長さんも、ご自身で塗って確認されてます」
確かにあそこの社長は、男でありながら試作品を毎回自分で試すという、素晴らしい経営者ではあるが。
何が悲しくて、好きな女の前で口紅を塗らなければいけないのか。
伊山にもプライドというものがある。
プロとしてのプライドと、男としてのプライド。
いま守るべきは後者だ。
「さあ、伊山さん、男になってください」
「男だから拒否してる」
頑なに拒む伊山に、星野は唇を尖らせた。
塗ったばかりの口紅の主張が強すぎて、どうしても唇に目がいってしまう。
……ということは、商品としては成功なのかもしれない、と伊山は思った。
「色残りが気になるなら、クレンジングのパウチ持ってますからあげます」
「なんでそんなに用意がいいんだ」
「いつお泊りになってもいいようにです」
「え?」
星野の軽口を真に受けた伊山は、平常心を装うのを忘れ、真顔で返した。
そんな伊山の予想外の反応に、星野も慌てて言葉を継いだ。
「やだ、冗談ですよー。試供品をもらって鞄に入れて、そのままなだけです」
「なるほどな」
伊山は適当に相槌を打って、特に飲みたいわけでもないコーヒーを飲んだ。
星野も気まずさを紛らわせるように、そそくさとリップブラシを袋に戻し、口紅も箱にしまった。
伊山はプライドを死守できたことに安堵した。
「じゃあ仕方ないので、私の唇を見て、商品の売りを確認してください」
星野は自分で言って恥ずかしくなったのか、顔はこちらにむけたまま視線だけをそらせた。
次々と襲い掛かる容赦のない試練に、伊山は心が折れそうだった。
「キスしたくなりますか?」
あまり唇を動かさないようにとの配慮なのか、恥じらいからなのか、星野の声はとても小さかった。
伊山は眩暈がした。
今すぐ目の前の獲物に襲い掛かるか、それとも全速力でこの場から立ち去るかの二択しか自分にはないような気がした。
必死の思いで理性という名の守護者を呼び出し、掠れた声で答えた。
「……雇用主としてはコメントしにくいんだが」
星野がまた唇を尖らせた。
条件反射のように目がいってしまう自分に伊山は心の中で悪態をついた。
「伊山さん、今日はキレが悪いですね」
星野は伊山を挑発するようなことを言った。
「開発コンセプトが『キスしたくなる唇』なんですから。ちゃんと言語化しないとプロデュース案が浮かばないですよ」
もっともらしい言葉で翻弄する星野に、伊山は応酬したくなった。
「俺個人の意見は参考にならないと思う」
「なんでですか?」
伊山はあえて星野の唇を見つめた。
その視線に気づき、星野は身じろぎした。
「そういうテカテカしたのより、普段の星野の唇が好みだから」
わかりやすく動揺した星野が、両手で口元を隠した。
伊山は満足気に笑って付け足した。
「口紅の質感の話な」
「あ、ああいうマット系が好きなんですね」
星野は慌てて立ち上がると、「口紅落としてきます」と言って出ていった。
リップブラシと呼ぶらしい綿棒のようなもので星野がクライアントの商品を唇に塗った。
目のやり場に困り、伊山は箱の形状を確認するふりをした。
星野がプロデュースの仕事も手伝うようになってから、届いたクライアントの商品を二人で確認するのが恒例となっていた。
社員用デスクの空きスペースに並んで仕事をする時間は、伊山に束の間の癒しを与えてくれた。
「じゃあ、伊山さんも塗ってください」
「は?」
口紅とリップブラシを両手に持った星野が、さも当然のように言った。
「実際に塗ってみないと、商品のよさがわからないじゃないですか」
「いや、星野が実感したならそれで十分だろ」
「メインプロデューサーは伊山さんですよ。それに、あちらの社長さんも、ご自身で塗って確認されてます」
確かにあそこの社長は、男でありながら試作品を毎回自分で試すという、素晴らしい経営者ではあるが。
何が悲しくて、好きな女の前で口紅を塗らなければいけないのか。
伊山にもプライドというものがある。
プロとしてのプライドと、男としてのプライド。
いま守るべきは後者だ。
「さあ、伊山さん、男になってください」
「男だから拒否してる」
頑なに拒む伊山に、星野は唇を尖らせた。
塗ったばかりの口紅の主張が強すぎて、どうしても唇に目がいってしまう。
……ということは、商品としては成功なのかもしれない、と伊山は思った。
「色残りが気になるなら、クレンジングのパウチ持ってますからあげます」
「なんでそんなに用意がいいんだ」
「いつお泊りになってもいいようにです」
「え?」
星野の軽口を真に受けた伊山は、平常心を装うのを忘れ、真顔で返した。
そんな伊山の予想外の反応に、星野も慌てて言葉を継いだ。
「やだ、冗談ですよー。試供品をもらって鞄に入れて、そのままなだけです」
「なるほどな」
伊山は適当に相槌を打って、特に飲みたいわけでもないコーヒーを飲んだ。
星野も気まずさを紛らわせるように、そそくさとリップブラシを袋に戻し、口紅も箱にしまった。
伊山はプライドを死守できたことに安堵した。
「じゃあ仕方ないので、私の唇を見て、商品の売りを確認してください」
星野は自分で言って恥ずかしくなったのか、顔はこちらにむけたまま視線だけをそらせた。
次々と襲い掛かる容赦のない試練に、伊山は心が折れそうだった。
「キスしたくなりますか?」
あまり唇を動かさないようにとの配慮なのか、恥じらいからなのか、星野の声はとても小さかった。
伊山は眩暈がした。
今すぐ目の前の獲物に襲い掛かるか、それとも全速力でこの場から立ち去るかの二択しか自分にはないような気がした。
必死の思いで理性という名の守護者を呼び出し、掠れた声で答えた。
「……雇用主としてはコメントしにくいんだが」
星野がまた唇を尖らせた。
条件反射のように目がいってしまう自分に伊山は心の中で悪態をついた。
「伊山さん、今日はキレが悪いですね」
星野は伊山を挑発するようなことを言った。
「開発コンセプトが『キスしたくなる唇』なんですから。ちゃんと言語化しないとプロデュース案が浮かばないですよ」
もっともらしい言葉で翻弄する星野に、伊山は応酬したくなった。
「俺個人の意見は参考にならないと思う」
「なんでですか?」
伊山はあえて星野の唇を見つめた。
その視線に気づき、星野は身じろぎした。
「そういうテカテカしたのより、普段の星野の唇が好みだから」
わかりやすく動揺した星野が、両手で口元を隠した。
伊山は満足気に笑って付け足した。
「口紅の質感の話な」
「あ、ああいうマット系が好きなんですね」
星野は慌てて立ち上がると、「口紅落としてきます」と言って出ていった。