神の代償[サファイア・ラグーン3作目]〈スピンオフ〉

[5] ルモエラ





 それからというものシルフィは、周囲の(すき)(うかが)いながら、度々結界を訪れるようになっていた。『お迎え』がなければ中に立ち入ることは出来ないが、あの賑やかな祈りを始めれば、ネフィはどんな時でも、困った顔をしつつも現れ、彼女を中の世界へと招き入れた。



「ネフィ様、今日のお話は何処の国?」

 シルフィは自分の知る近い海域以外の、異国の海の物語が好きだった。美しく響く低音の声に余り抑揚はないが、必ず驚くような展開や結末が隠されていて、惹きつけられずにはいられない。それはまるで留守番に飽きた妹を、楽しい物語で時を忘れさせてくれた姉アリアのようだった。

 既にあれから数日が過ぎたが、この楽しい時間は永遠に続くかのように思われた。ただあの初めて此処を訪れた時とは異なることが一つだけ。そして二つの約束を交わされた。



 一、『神』の半径一メートル以内には近寄らぬこと。

 二、一番西に在る奥間には立ち入らぬこと。



「其処に何があるの? ネフィ様」

 その条件を呑むことには承知したが、好奇心は隠しきれなかった。

「『何も』ない。只、危険なだけだ」

 初めて訪れた時と同様、玉座で足を組んだ神は、頬杖を突いてシルフィを見下ろしていたが、その両手にはあの日とは違い、細やかで薄い絹の手袋がはめられていた。シルフィはそれについても質問をしたが、ネフィは口角を上げて遠くを見つめるだけで、どちらも明かされることはなかった。

「……さて、今日は此処までだ。早く帰れ。お前の母が来る」

 短い物語を滑らかに語った後、全身を隠すマントの裾を軽く舞い上がらせて、ネフィはおもむろに立ち上がった。「急がないと、かち合うぞ」と云わんばかりに。

「え……? あ、そう言えば、そんなこと言っていたかも……」

 少々満足のいかないシルフィではあったが、さすがにこんな所で見つかったら、お仕置きだけでは済まされない筈だ。仕方なく玉座の傍から身を起こし、ぐんと腕を上げ背伸びをする。その時ふわりと目の前を(かす)めたマントが余りにも柔らかそうで、思わずその手を伸ばしてしまっていた。

「あっ……」

 ひらりと流れを返して手元をすり抜けた布端(きれはし)が視界から消え、(くう)を掴んだ小さな拳の先をハッと見上げる。

「私に触れるな、と話した筈だ」

 シルフィは、冷たく睨みつけたネフィの(まなこ)に責められていた。

「ご、ごめんなさい……」

 約束してから幾日も経っていないというのにこのざまとは、さすがに自己嫌悪に陥ってしまう。けれどその時『神』に触れたいという欲求にも気付かされていた。いや……『神』ではなく、『ネフィ』という美しい一青年になのか──?

「申し訳ございませんでした、ネフィ様。以後……気を付けます」

 シルフィは深い反省の色を見せ、従者としての謝罪を捧げて立ち上がった。垂れた(こうべ)は磨かれすらしていない岩肌の床を見下ろしたままだ。

「分かったなら良い。下がれ」

 詰襟越しの横顔はいつものように余り感情を見せない。それでも次に続いた句には憐れみや親しみを含んだ、いつになく優しい声が添えられていた。

「……明日には長い話を語ってやろう」

 沈んだ気持ちを引きずったまま、広間の出口を目指し背を向けるシルフィ。しかし同じく広い背と漆黒の髪を重ねた向こう側からの小さな声が、彼女の瞳の輝きを取り戻させていた。

「まっ、またね! ネフィ様!!」

 喜びに満ちた笑顔で泳ぎ去る、シルフィの描いた水紋の揺らめきに、ネフィは微かな笑みを(たた)えて振り返った──。



 * * *



 気持ちの軽やかさが、尾びれの一振りにすら現れていた。

 出入り禁止を言い渡されてもおかしくない状況だったのだ。なのにネフィは怒るどころか、明日への希望を手土産に持たせてくれた。これが嬉しくない訳がない。

 シルフィは溢れる気持ちを何とか抑えながら、二つ目の扉を押し開いた。まもなく館の出口という所で、最後の扉が僅かに開かれようと動き出したのを目に留めて、思わず柱の陰に隠れた──お母様だわ──そう気付いて、声を上げそうになった口元を、すかさず両の手でギュッと(ふさ)いだ。

 幸い目の前に現れたルモエラの横顔は、こちらを振り向くことなく通り過ぎていった。しかしその表情はいつになく強張(こわば)って見えた。『海神ネプチューン』に謁見するともなれば、幾度目となろうと緊張するのは当り前のことかもしれないが、シルフィは胸騒ぎのような心のざわめきを感じて、そっと母親の後を追った。

「ご機嫌麗しゅう」

 先程まで自分が(くつろ)いでいた大広間。招かれた母ルモエラ──シレーネが、『神』に挨拶したその一言は、扉の向こうで聞き耳を立てる娘シルフィにも鮮明に聞こえていた。

「ああ。……お前も。シレーネ」

 毎度繰り返されている言葉なのだろう。『神』の言葉には力がない。退屈そうに呟いたことは、もう数日を過ごしたシルフィにも分かり、独り苦々しい笑いを(こら)えてみせた。

「本日の議の前に……少々宜しいでしょうか」

 そう願い出たのはルモエラだった。少女の覗く微かな扉の隙間から、背を向けていた『神』がゆっくりと、(ひざまず)き低頭したシレーネを振り返る。

「構わぬが……何だ?」

 伏し目がちな視線の先の、母親の(おもて)は向こうを向いているためシルフィには分からないが、何か嫌な予感がした。

「……『娘』を……お返しいただけないでしょうか」

 ──!!

 ルモエラの声は遠慮がちに小さく、けれど痛々しいほどの悲しみを秘めていた。

 ──違うのよ、お母様! わたしは楽しい時間を過ごさせてもらっているだけ!!

 そう言い訳したい自分が危うく扉に手を掛けるところであったが、『何か』が少女を引き留めていた。──『何か』……『娘』──?

「……『娘』、とは?」

 心に引っ掛かった疑問を『神』が代弁した。

「詳しく……申し上げた方が宜しいでしょうか。最近こちらに出入りしていることは、私も気付いております。我が次女シルフィエーヌと……。そして、二年前から留まっている筈の……長女アリア、を」
「……えっ……!?」

 思わず声が(こぼ)れてしまう。けれど同じように動揺しているのか、二人に気付かれることはなかった。

 ──アリア……お姉様が?

「気付いて……いたのか」

 『神』もまた、絞り出すような苦悩の言葉を洩らした。

「これでも、母親ですから……」

 シレーネは立ち上がり、『神』へと姿勢を向けたようだった。いや、既にその一言で、彼女は“ルモエラ”として『神』に対峙していた。

「二年と数ヶ月前、アリアの様子がいつもと違うことを察しました──恋をしているのだと。けれどあの()は私に何も言わなかった……それで娘の髪留めに細工を施したのです。私の鱗の粉を内部に仕込み、魔法を掛けました──貴方様に気付かれないように。思った通り、この地に近付いた途端に鱗の反応は消え、アリアが貴方様に見初められたのだと理解致しました」

 『神』はゆっくりと視線を逸らし横顔を見せた。その頬には緊張の張り詰めた雰囲気が窺える。

「或る日を境に、あの娘は帰ってきませんでした。でも私は納得したのです。『神』であられる貴方様を愛したなどと、たとえ母にさえ云えなかったことも、何も告げず貴方様を選び、私達の許から去ったことも……ですのに。貴方様は今になって、シルフィエーヌをお選びになられた。ご存知の通り、あの娘はまだまだ未熟者です。貴方様を満足させるには至らないでしょう。貴方様が幼子と遊んでいるおつもりだとしても……あの娘もまた貴方様に恋をしております。どうかシルフィエーヌがこれ以上深く傷つく前に……そして、アリアを飽きたのだと申されるのでしたら、どうぞ二人をお返し──」
「飽きたなどとっ!」

 哀しみに取り巻かれながらも凛としたルモエラの声は、おそらく彼女でさえも初めて聞く荒げられた『神』の一言で打ち消された。彼女を捉えた焦燥と怒りの表情は、遠くで覗き見るシルフィさえも()てつかせた。

「……すまない。私は……今でもアリアを愛している。空っぽの胸の内を、あの微笑みがどれだけ救ってくれたかしれない……アリアの笑顔は……私の心を満たしてくれた」

 ──心満たされるの。

 アリアが以前シルフィに語った言葉。二人が同じ想いで、同じ時を過ごしていただなんて。

「では何故シルフィエーヌを……」

 既に一青年と化した『神』を目の前にして、ルモエラは戸惑っていた。そして言葉尻が過去形であることに疑問が浮かび上がる──今、アリアは?

「私が……悪いのだ。アリアは気付いていた。自分が同じ時を生きられないことを。私の生命は永遠だ。が、幾ら愛し合ったとしても、彼女は神にはなれない。私は言った……「お前の笑顔だけで心満たされる」と。それが間違いの始まりだった。私は彼女を変えたくなかった訳ではない。だからいずれ時が来た時、彼女に私のカケラを託し、自由にしてやるつもりだった。だが、アリアはそれを望まなかった……彼女は……永遠を願ってしまったのだ……永遠に変わらない微笑みを刻んで……アリアは……“生きる人形”になった──」
「……今……何と……?」

 両手で口元を押さえたルモエラは、やがて絶句し後ずさった。

 額に手をやった『神』の、苦しみながら吐き出された秘め事は、扉の後ろのシルフィには半分も理解出来なかったが、姉の身に忌まわしい出来事が降りかかったことは何となくでも判断がついた。耳から呑み込まれた事実が心へと落ちてゆくが、受け留められずにぽろぽろと零れ落ちてしまう。胸の奥がズキンと痛んで、思わず手を当て瞳を閉じた。

 『ネフィが姉を愛していること』、『姉がネフィを愛していること』

 そして。愛したからこそ、姉が選んだ結実の策とは──?

「シレーネ……お前も知っておろう、我が右手は生命を宿し、左手が死を招くことを。それをいつしかアリアも知った。あの日──私はアリアを残し瞑想に入ったのだ。そして彼女は私の手袋を外し……触れてしまった──左の……死を与える手に」
「では……アリアは、死を選んだ、と」

 ルモエラの声は震え掠れていたが、母として、シレーネとしての気丈さは忘れず背に力を込めた。

「いや……アリアは少なくとも『()()()()()』。彼女はその先をも見越していた。私が覚醒し“引き留める”ことを。彼女が触れたことに気付いた私は、咄嗟に右手によって彼女を引き戻そうとした。でも……アリアは拒んだのだ……その『境い目』から生還することを……だから彼女は今でも彷徨(さまよ)っている。生でも死でもない、その中間を漂い、私の傍にいつまでも──あの笑顔を、私に向けたまま──」
「……ア、リア──」

 消え入った切ない言葉と共に、ルモエラは両手で顔を隠し立ち尽くした。それを見つめるネフィの左眼から一筋の涙が頬を伝って落ちたが、海水には交わらず、仄かに光って魂のように辺りを浮遊した。

「“妹”と遭遇したのは本当に偶然のことだった。アリアと似ても似つかぬその姿にも性格にも、初めは子供としての扱いしか出来なかった。けれど接する度に垣間見えてきたのだ……アリアと同じ仕草・所作(しょさ)の幾つかが。それにいつしか癒されている自分がいることに気付かされた。二年が経ち、私は何処かで生き生きと動くアリアを求めていたのかもしれない。私が()()()ことなど云わねば彼女は……本当に……悪かった、ルモエラ。そしてアリアにも、シ──」

 ──お姉様──。

 シルフィはネフィのそんな謝罪など聞きたくないと耳を塞いだ。

 ──違う……お姉様は、ネフィ様のその言葉で決断したんじゃない……本当にずっとネフィ様のお傍にいたかったんだ。たとえ『全て』を捨て去ったとしても──!!

 そして少女は自分を(かえり)みる。

 ──馬鹿だ……わたしに向けられたネフィ様の瞳が、お姉様を見つけていたなんて気付きもしなかった。ただ退屈しなくて済むこの場所と、あのお方に甘えていただけのわたしになんて……わたしの名前すら呼んでもくださらない高い高い所の神様に、たった一人気に入られたのだと思い込んでいたわたしなんかに……!

 溢れ出た涙は、しかし海水に溶け込んで、どれだけ哀しみが雫となったのか分からなかった。

「アリアは……今、何処に──」

 ひとしきり泣きはらしたルモエラの問いかけが聞こえて、シルフィはハッと顔を上げ、右側を振り向いた。

 ──『神』が出入りを禁じた西の奥間──。

「お姉様……其処にいるの?」

 泳ぎ方すら分からなくなりそうなほど心が姉を求めて、その手も尾びれもじたばたと水を掻いた。ふと身体を扉に打ちつけて、やっと目的の場所へと前進を始めたが、二人に気付かれたことも何もかも、もうどうでも良くなっていた。

 ──わたしの……わたしの優しいアリアお姉様!!

 やっと会える。ずっと会いたかった、美しい紅色の髪──。

「シルフィ……?」
「いけないっ! 私以外の者がアリアに触れてはっ!」



 ルモエラと『神』は扉を押し開き、回廊の奥を見やった。
 水に揺らぐ銀の髪と、蒼を含んだ尾びれを認めて、ネフィはすぐさま駆け出し、慌ててルモエラもその後を追いかけた──。






◆ネフィはもっとイケメンに仕上げたかったのですが、私の技量が追いつきませんでした(涙)。
 美青年をご期待していた方々、大変失礼致しました(泣)。


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