神の代償[サファイア・ラグーン3作目]〈スピンオフ〉
[4] ネフィ
結界の中は特に外の世界と変わりはなかった。同じように深海を照らす灯が点々と並べられ、その周囲は陸上のように明るい。それでも左手に見えた暗闇が不思議と惹きつける何かを感じさせたので、遠慮がちに尋ねてみたが、『神』はただ「海溝だ」と一言答えただけであった。
しばらく進んだ先の丘を下ると、其処だけは随分と様子が違っていた。すり鉢状の大きな谷を珊瑚礁がびっしりと覆い、その中心には岩場を削り落としたような荒々しい建造物が聳えている。『神』がその正面に立ち前進すれば、目の前の扉は応えるように自然と開き迎え入れる。そうして三枚目の扉が押し開かれた時、いつの間にかシルフィは大広間の真中に立ち尽くしていた。
「ようこそ、『東の館』へ」
ぐるりと見回していた大きな瞳を背中側へ向けた。既に『神』は重厚な石の玉座に着き、マントで隠されていたスラリと長い脚が寛ぐように組まれていた。
「東……? わたし達の世界より、西に在るのに?」
「地中海の中では、東の方だ」
頬杖を突いて、呆れたようにシルフィを見上げた。
「お前の名は?」
「シルフィ」
『神』は物怖じしない小さな人魚に興味を抱いたようだった。しかし記憶を手繰り寄せるようにほんの一瞬眼を空へ向け、
「そんな名の人魚はいない筈だ」
再び彼女を見た。
「あー、えっと……長い名前が好きじゃないだけ……シルフィエーヌ=ブランシェです」
「ふむ」
納得したように口をへの字に曲げる。
「ネプチューン様は、此処に独りで暮らしているの?」
「……そうだな」
シルフィは再び自分を中心に一周広間を見回してみたが、必要最低限の物しか存在しない殺風景な岩壁の視界は、人魚達の煌びやかな宮殿とはまるで正反対だった。
「ネプチューン様は──」
「私はネプチューンでもなければポセイドンでもない。あれは人間共が勝手に呼んでいる名だ。お前が今見ている姿も、お前が創り上げた実体であって、本当の姿ではない」
淡々と説明し終えたその表情には、何の感情も揺らいでいなかった。
「それじゃあ、本当の名前と本当の姿は?」
「名も姿もない。神は、神だ」
「ううん?」
シルフィは眉根を寄せた。どうも抽象的・哲学的なことは苦手だ。
しばし考えを巡らせ、一度は諦めたように俯いてしまう。それでも刹那明るい笑顔を取り戻し、それを『神』へと向けていた。
「いーこと思いついたわ。わたしが神様に名前をあげる!」
「お前が?」
「うーんと……そうね……『ネフィ』様がいいわっ」
「……ネフィ?」
「『ネプチューン』の『ネ』に、『シルフィ』の『フィ』」
「何故お前の名から得るんだ?」
「それは……出逢った記念と仲良しの証拠よ!」
「……」
数回会話のやり取りが続いた挙句、飛び出した突拍子もない理由に、『神』は右手でその横顔を覆い言葉を失った。
「……ネフィ様?」
さすがに怒りを買ってしまったかと、心配を面に出したシルフィは、消極的に沈黙を破ったが、
「面白い娘だ」
その返答と共に笑いを堪えるネフィの姿を見て、彼女はほっと胸を撫で下ろし、同時に或ることに気が付いた。
「ネフィ様、笑顔の方がずっといいわ」
途端、広間に響いていた含み笑いの声は途切れ、驚いたようなネフィの瞳には、愛らしい人魚の微笑みが宿る。
「笑顔か……」
けれどその言葉を最後に、再び感情のない彫像のような『神』が、彼女へと体勢を戻していた。
「さて……本題に入ろう。お前の姉は……少なくとも『生きている』」
「えっ……?」
突然雰囲気を戻された上に、喜んで良いのか分からぬ言葉の応酬だ。どんな顔をすべきというのか。
「『此処』は海で死んだ者達の辿り着く場所だ。が、少なくともお前の姉は此処を通っていない」
シルフィの表情には一瞬嬉しさが溢れ出したものの、
「でも……人間に姿を変えて、陸上で死んでしまったら?」
「ふん……意外に賢いな。その通り、絶対とは言えなくなる」
返された言葉にがっくりと肩を落としてしまった。
「あのぉ……わたしを人間に変えてもらうなんてことは……?」
遠慮がちに、それでも上目遣いの瞳に力を込めてみせる──しかし、
「お前は成人前だ。私が掟を破っては、お前の母親に示しがつかぬな」
案の定の答えに、とうとうシルフィは大きな溜息をついた。
「どうしてそこまで姉を探す?」
「どうしてって……」
──お姉様に会いたいからに決まっている。お姉様が幸せならそれでいい。でも不幸な目に遭っていたら……わたしが助け出してあげなくちゃ。
「わ、わたしのお姉様だからよっ」
頭の中でぐるぐると廻ったアリアへの想いが、ギュッと圧縮されて、思わず飛び出した言葉は少々質問に噛み合っていないようにも思われた。
「──そうか。姉だから、か」
けれどもネフィは右手に頬を乗せて、広間の先の遠くを見やり、納得したような言葉を零していた。
「ネフィ様」
「うん?」
ぼんやりと物想いに耽っていた所為か、勝手に与えられた名に応えてしまう。
そんな自分に動揺した『神』は、たちまち嫌悪の表情を見せ、鋭い視線を正面に戻した。
「人間じゃなくてもいいの。わたしを昔の半人半鳥に戻せない?」
『神』の視界を埋めたのは、先程までの幼い印象の少女ではなく、哀しみを湛えた一人の真剣な人魚だった。
六年前に亡くなった祖母の先代までは、陸の岩礁に暮らす半分鳥の姿であったことを彼女も知っている。もしも翼が手に入れば、上空から姉の美しい赤毛を見つけることは容易なのではないか?
何て素晴らしい思いつきだろうと、途端表情を明るくし自画自賛した彼女に対して、ネフィは嘲るようにゆっくりと哂った。
「私の管轄は海の中だけだ。半分を鳥になどと、有り得ない話だな」
「でもっ……鳥だったご先祖様を魚に変えたのはネフィ様じゃない! 逆だってきっと──」
「お前達の先祖は自ら身を投げた。それが偶然『海』だったというだけだ」
「……」
シルフィは前日散々聞かされたお小言の時と同じく、口を尖らせて抗議の姿勢を表した。
「コロコロと良く表情を変える娘だな。──まあいい。とりあえず今のお前に成す術はない。また何か情報を得たら呼んでやろう。今日はこれで帰れ。人魚達が心配する」
そう言ったネフィでさえも、自分の表情が様々に変化していたことに気付いていたのであろうか? 最後には呆れながらも、いつしか柔らかな微笑みを向けていた。
「んー……そうしたら。言われた通り今日は帰るわ、ネフィ様。でも……」
「──でも?」
まさか続きがあるとは思わず、意外そうな顔をして小首を傾げるネフィ。
そんな『神』に捧げられた絶品の笑顔が発する言葉は、彼を刹那に絶句させた。
「でも! また明日ねっ、ネフィ様っ!!」
「──!?」
やっと声の出せるほどの落ち着きを取り戻した頃には、シルフィの躍る軽やかな銀髪も、大きな深海色の瞳も、淡いブルーグレーのドレスのような尾びれもなかった。
勢い良く泳ぎ去ったために生れ出でた小さな泡の幾つもが、彼女の笑い声のように軽快な音を立てながら、彼の目の前で弾け消えていった──。
しばらく進んだ先の丘を下ると、其処だけは随分と様子が違っていた。すり鉢状の大きな谷を珊瑚礁がびっしりと覆い、その中心には岩場を削り落としたような荒々しい建造物が聳えている。『神』がその正面に立ち前進すれば、目の前の扉は応えるように自然と開き迎え入れる。そうして三枚目の扉が押し開かれた時、いつの間にかシルフィは大広間の真中に立ち尽くしていた。
「ようこそ、『東の館』へ」
ぐるりと見回していた大きな瞳を背中側へ向けた。既に『神』は重厚な石の玉座に着き、マントで隠されていたスラリと長い脚が寛ぐように組まれていた。
「東……? わたし達の世界より、西に在るのに?」
「地中海の中では、東の方だ」
頬杖を突いて、呆れたようにシルフィを見上げた。
「お前の名は?」
「シルフィ」
『神』は物怖じしない小さな人魚に興味を抱いたようだった。しかし記憶を手繰り寄せるようにほんの一瞬眼を空へ向け、
「そんな名の人魚はいない筈だ」
再び彼女を見た。
「あー、えっと……長い名前が好きじゃないだけ……シルフィエーヌ=ブランシェです」
「ふむ」
納得したように口をへの字に曲げる。
「ネプチューン様は、此処に独りで暮らしているの?」
「……そうだな」
シルフィは再び自分を中心に一周広間を見回してみたが、必要最低限の物しか存在しない殺風景な岩壁の視界は、人魚達の煌びやかな宮殿とはまるで正反対だった。
「ネプチューン様は──」
「私はネプチューンでもなければポセイドンでもない。あれは人間共が勝手に呼んでいる名だ。お前が今見ている姿も、お前が創り上げた実体であって、本当の姿ではない」
淡々と説明し終えたその表情には、何の感情も揺らいでいなかった。
「それじゃあ、本当の名前と本当の姿は?」
「名も姿もない。神は、神だ」
「ううん?」
シルフィは眉根を寄せた。どうも抽象的・哲学的なことは苦手だ。
しばし考えを巡らせ、一度は諦めたように俯いてしまう。それでも刹那明るい笑顔を取り戻し、それを『神』へと向けていた。
「いーこと思いついたわ。わたしが神様に名前をあげる!」
「お前が?」
「うーんと……そうね……『ネフィ』様がいいわっ」
「……ネフィ?」
「『ネプチューン』の『ネ』に、『シルフィ』の『フィ』」
「何故お前の名から得るんだ?」
「それは……出逢った記念と仲良しの証拠よ!」
「……」
数回会話のやり取りが続いた挙句、飛び出した突拍子もない理由に、『神』は右手でその横顔を覆い言葉を失った。
「……ネフィ様?」
さすがに怒りを買ってしまったかと、心配を面に出したシルフィは、消極的に沈黙を破ったが、
「面白い娘だ」
その返答と共に笑いを堪えるネフィの姿を見て、彼女はほっと胸を撫で下ろし、同時に或ることに気が付いた。
「ネフィ様、笑顔の方がずっといいわ」
途端、広間に響いていた含み笑いの声は途切れ、驚いたようなネフィの瞳には、愛らしい人魚の微笑みが宿る。
「笑顔か……」
けれどその言葉を最後に、再び感情のない彫像のような『神』が、彼女へと体勢を戻していた。
「さて……本題に入ろう。お前の姉は……少なくとも『生きている』」
「えっ……?」
突然雰囲気を戻された上に、喜んで良いのか分からぬ言葉の応酬だ。どんな顔をすべきというのか。
「『此処』は海で死んだ者達の辿り着く場所だ。が、少なくともお前の姉は此処を通っていない」
シルフィの表情には一瞬嬉しさが溢れ出したものの、
「でも……人間に姿を変えて、陸上で死んでしまったら?」
「ふん……意外に賢いな。その通り、絶対とは言えなくなる」
返された言葉にがっくりと肩を落としてしまった。
「あのぉ……わたしを人間に変えてもらうなんてことは……?」
遠慮がちに、それでも上目遣いの瞳に力を込めてみせる──しかし、
「お前は成人前だ。私が掟を破っては、お前の母親に示しがつかぬな」
案の定の答えに、とうとうシルフィは大きな溜息をついた。
「どうしてそこまで姉を探す?」
「どうしてって……」
──お姉様に会いたいからに決まっている。お姉様が幸せならそれでいい。でも不幸な目に遭っていたら……わたしが助け出してあげなくちゃ。
「わ、わたしのお姉様だからよっ」
頭の中でぐるぐると廻ったアリアへの想いが、ギュッと圧縮されて、思わず飛び出した言葉は少々質問に噛み合っていないようにも思われた。
「──そうか。姉だから、か」
けれどもネフィは右手に頬を乗せて、広間の先の遠くを見やり、納得したような言葉を零していた。
「ネフィ様」
「うん?」
ぼんやりと物想いに耽っていた所為か、勝手に与えられた名に応えてしまう。
そんな自分に動揺した『神』は、たちまち嫌悪の表情を見せ、鋭い視線を正面に戻した。
「人間じゃなくてもいいの。わたしを昔の半人半鳥に戻せない?」
『神』の視界を埋めたのは、先程までの幼い印象の少女ではなく、哀しみを湛えた一人の真剣な人魚だった。
六年前に亡くなった祖母の先代までは、陸の岩礁に暮らす半分鳥の姿であったことを彼女も知っている。もしも翼が手に入れば、上空から姉の美しい赤毛を見つけることは容易なのではないか?
何て素晴らしい思いつきだろうと、途端表情を明るくし自画自賛した彼女に対して、ネフィは嘲るようにゆっくりと哂った。
「私の管轄は海の中だけだ。半分を鳥になどと、有り得ない話だな」
「でもっ……鳥だったご先祖様を魚に変えたのはネフィ様じゃない! 逆だってきっと──」
「お前達の先祖は自ら身を投げた。それが偶然『海』だったというだけだ」
「……」
シルフィは前日散々聞かされたお小言の時と同じく、口を尖らせて抗議の姿勢を表した。
「コロコロと良く表情を変える娘だな。──まあいい。とりあえず今のお前に成す術はない。また何か情報を得たら呼んでやろう。今日はこれで帰れ。人魚達が心配する」
そう言ったネフィでさえも、自分の表情が様々に変化していたことに気付いていたのであろうか? 最後には呆れながらも、いつしか柔らかな微笑みを向けていた。
「んー……そうしたら。言われた通り今日は帰るわ、ネフィ様。でも……」
「──でも?」
まさか続きがあるとは思わず、意外そうな顔をして小首を傾げるネフィ。
そんな『神』に捧げられた絶品の笑顔が発する言葉は、彼を刹那に絶句させた。
「でも! また明日ねっ、ネフィ様っ!!」
「──!?」
やっと声の出せるほどの落ち着きを取り戻した頃には、シルフィの躍る軽やかな銀髪も、大きな深海色の瞳も、淡いブルーグレーのドレスのような尾びれもなかった。
勢い良く泳ぎ去ったために生れ出でた小さな泡の幾つもが、彼女の笑い声のように軽快な音を立てながら、彼の目の前で弾け消えていった──。