東雲家の御曹司は、わさびちゃんと新婚蜜月中
「おい、わさび……本当に単刀直入過ぎるぞ……まだ会って数分だろ……交渉というものはだな、もっと───……」
紀糸のアドバイスは一切無視の山葵。
彼女は十六夜 有馬をまっすぐに見つめたまま、話しを続けた。
「わさびの秘書がメールで送ったノーザンの資料は見てくれましたか? 感想は聞くまでもありません。ノーザンは素晴らしいですからね。わさびは、そんなノーザンの次期施設長として、十六夜騎手を迎えたいです───わさびと一緒に馬ファーストの人生はいかがでしょうか」
「……」
突然のスカウトに、十六夜 有馬はあっけに取られていた。もちろんそれは山葵の隣に立っている紀糸も同じ。
しかし───……
「はい、是非よろしくお願いします。お声をかけていただき大変光栄です」
有馬は即断即決、笑顔で山葵の前に自身の右手を差し出した。まるで山葵並みの決断力だ。
その状況に、一番驚いていたのは山葵でも有馬本人でもなく、紀糸だった。
「───っいいのですか、ちゃんと考えましたか? お返事は後日でもかまいませんよ」
そんな紀糸をよそに、山葵は差し出されたその手をガッチリと掴む。
紀糸はこの交渉においては完全に蚊帳の外だ。
「では決まりですね───ところで、引退はいつ頃ですか? 実は、今の施設長夫妻がそろそろ隠居したいと言っています」
「ははは! そうでしたか。まるで見計らったかのようなタイミングですね。実は来春の騎手免許の更新は行わないつもりでいました」
イギリスの騎手免許制度では、基本的に毎年更新が必要だ。一般的に、30代後半で引退する騎手が多いが、34歳である有馬は少し早いともいえる。
「わさびと十六夜騎手は運命共同体です、そういう星のもとにいるのです。では、来春以降お待ちしております───住居その他もろもろはすべてこちらで用意しておきますので、その身一つでお越しください」
「ははは、素晴らしく好待遇ですね───自分の事は有馬でいいですよ、オーナー」
どんどん話が進んでいくこの異常な状況に、紀糸も遅ればせながら気持ちの整理をつけ、二人に追いつく。
「有馬さん、ノーザンの次期施設長として、私の妻のサポートをよろしくお願いします───……ところで、失礼ですがご結婚は?」
モデルのような整った容姿の有馬を意識してか、やたらに妻という単語を強調する紀糸。嫉妬深い夫に、山葵はまたか、とおもわず虚無の眼になる。
「……」
「自分は独身です。このとおり馬にばかりに愛情を注いでいたら婚期を逃しましてね」
「それはそれは……逆輸入イケメンに、ノーザンの女性スタッフ達が浮足立ちそうです」
───杏奈ちゃんとか杏奈ちゃんとか杏奈ちゃんとか。
胡散臭い笑顔をつくり、当たり障りない言葉で返す紀糸。心の中では、もちろん舌打ちをしている。山葵に関してだけは、どこまでも狭量な紀糸だった。
「ところで、十六夜パパはお元気ですか? お爺のお葬式に来てくれていたと、秘書から聞きました」
「ええ、おかげ様で元気にしています。もう馬には携わっていませんが、妹がシングルマザーで男児の双子を出産しまして、最近はそのサポートを両親が」
「……ほぉ、それは面白そうですね……」
つい興味本位で有馬の頭を覗いた山葵は、彼の妹とその双子に会ってみたくなった。スマホに写る双子の赤ちゃんは、山葵がワクワクするような見た目をしていたのだ。
「はは、面白いかどうかはわかりませんが、自分も双子なので甥っ子も双子なのは嬉しいですね。帰国したら北海道へ行く前にまた会いに行こうと思います」
「是非その時はわさびも一緒に───(っもがっ)!」
「わさび、何を言うつもりだ……また良からぬことを考えてるんだろ。忘れるなよ、今はハネムーン中だ。話が済んだのなら、もう行くぞ」
何かを察したのか、はたまた、ただの嫉妬か、紀糸に口を塞がれた山葵は一緒に行きたい、と願い出ることが出来なかった。
「そうでした」
その後、二人は有馬と別れ、ハネムーン中の夫婦として仕切り直し、イギリス競馬を思いきり楽しんだ。
来春のノーザンはニューフェイス祭りな予感───……