桜吹雪が舞う夜に
夜勤中だった。夜のロビー。
自販機の硬貨投入口に小銭を押し込みながら、横目に水瀬の姿を捉える。
息をするだけで苛立ちを煽ってくる女だ。思わず吐き捨てる。
「……クソ女。何しに来た」
水瀬は目を丸くして、それからにやりと笑った。
「ねぇ、ひどくない? 桜ちゃんに言いつけようかな?」
その軽さが腹立たしい。顔をしかめ、返事をする気にもなれない。
……本気で、自分はどうしてこんな女と付き合ったりしていたんだろうか。大学時代の自分を呪う。
救急医としての彼女は心底優秀だ。同僚として尊敬も信頼もしているし、俺にはないものを確かに持っている。
どんな修羅場でも冷静さを崩さず、瞬時に正しい判断を下す聡明さ。時には上司にすら一歩も引かず、はっきりと意見を言う強さ。
……けれど、その強さがあるからこそ、彼女が俺を真に必要とすることは一度もなかった。
俺がいなくても、彼女は揺らがずに立っていられる。――それが分かってしまった瞬間、俺たちの関係は息をするように自然なこととしてある日突然終わった。
沈黙を楽しむように、水瀬はわざとらしく肩をすくめた。
「……で? 桜、ER見て何て言ってた?」
低く問いかけると、水瀬は小さく笑った。
「怖さも見てた。でも、それ以上に――挑みたい顔をしてたよ」
胸の奥に鋭い痛みが走る。
俺は即座に言い返した。
「……あの子には無理だよ。わざわざ戦場に好き好んで足を踏み入れる必要なんかない。お前と違ってあの子は全部を真面目に抱え込む」
水瀬は小さくため息をつき、わざと首をかしげた。
「……ねぇ、信じるって言葉、知ってる?」
眉が跳ね上がる。
「……何だと?」
「それってつまり、桜ちゃんの力を信じてないってことでしょ?
“どうせ無理だから、俺が決めてやる”――立派な蔑視だわ」
胸の奥がざわついた。
(……違う。俺は信じてる。だが……危険な現場に立たせるわけには――)
水瀬はくすりと笑い、淡々と告げる。
「愛してるからって、相手を信じない理由にはならないのよ」
――心臓を鷲掴みにされたように、言葉が出なかった。