牧師の息子のエリート医師は、歳下医学生に理性が効かないほど夢中です。(旧題:桜吹雪が舞う夜に)
水瀬先生は小さく鼻で笑い、軽く肩をすくめた。
「でも大丈夫だって。例え担当外されたって、あいつ自身、出世なんてあんまり興味なさそうだし」
その横顔を見ながら、私は言葉を失った。返したいのに、うまく言葉が見つからない。
「むしろ臨床一本でやってる方が性に合ってるでしょ。あの人、不器用だから。助教になったのが奇跡なんだって」
さらりとそう言って、赤い外車が交差点を軽やかに抜けていく。
「……助教?日向さんが……?」
聞き慣れない単語に、思わず問い返してしまった。
「えっ?あれ、それも知らない?今年からだけどね。同期じゃ話題になってたわよ。普通は30代後半から40代ぐらいでやっと就くものなのにって」
胸の奥に、最近何度もよぎった思いが疼く。
……どうして、あの人は私に何も言ってくれないんだろう。
「助教ってね、簡単に言うと、教授の下で研究と教育を任されるポスト。
昇任には論文数、学会発表、研究費の獲得――そういう業績が必要ね。普通は博士号を持ってて、年齢ももう少し上の人が多い。日向は論文数は確かに稼いでたけど、それにしたって大分異例の人事だった」
「……じゃあ、やっぱり日向さんはすごいんですね」
そう言うと、水瀬先生は苦笑した。
「すごいって言えばすごい。
でも、正直なところ……“教授に気に入られてる”って要素も大きいわよ」
「気に入られて……」私は思わずつぶやいた。
「だってあいつ、自分から出世を狙うようなタイプじゃないでしょう?
論文だって“言われたから書いてる”って顔してる。
それでも助教になってるのは、後ろ盾が強いからよ」
「後ろ盾……」
「例えばファーストオーサーにしてもらえる論文のテーマの選別。大学病院で上に上がるならセカンドの論文なんていくらあったってダメなの。ファーストの数を稼いで、尚且つインパクトファクターを稼げるジャーナルに査読を通す必要がある。そこで、普通なら雑用みたいなデータばかり回される若手に、評価されやすい症例や目立つテーマを優先して回してもらえるってこと。
それから海外での発表舞台の用意。推薦がなければ、若手がいきなり大舞台に立てることなんて滅多にないの」
ハンドルを切りながら、先生の声はあっけらかんとしているのに、私の胸の奥はざわめいていた。
(……そんなことまで、全部教授が)
「そういうのが“後ろ盾”。本人の努力だけじゃどうにもならない部分を、後押ししてくれる人がいるかどうかで決まる」
私は何も言えず、膝の上を見つめた。
胸の奥が静かに疼く。
「でも……じゃあ、もし本当に、講義担当を下ろされるってなったら?」
水瀬先生は片手でウインカーを出しながら、ちらりとこちらを見て肩をすくめた。
「研究費とかは減らされるんじゃない? それに昇進も……例えば准教授に上がりたいって思っても、なかなか難しくなるでしょうね」
言葉が重く胸にのしかかる。
昇進。准教授。日向さんは、望んでいるんだろうか。
私がその足枷になっているんだとしたら。
(……私、やっぱり知らないことばかりだ)
胸の中に黒いものが渦巻いていくのが、自分でも分かった。