傲慢外交官との政略婚

第七章 真実の向こう側

 港風に吹かれたまま、しばらく真壁の腕の中にいた。
 その温もりは心地よいのに、胸の奥に残る疑念は完全には消えない。
 私はゆっくりと彼から距離を取り、視線を合わせた。
 「……信じたい。でも、信じるのが怖いんです」
 真壁は何も言わず、ただ静かに頷いた。
 「なら、今夜だけ時間をください。全部話します」

 

 その夜、彼が指定したのは都内の高層ホテルのスイートだった。
 到着すると、窓からは東京の夜景が一望できる。
 テーブルにはワインと軽い食事が用意されていたが、雰囲気を楽しむ余裕はなかった。

 「座ってください」
 促され、ソファに腰を下ろすと、彼は向かいに座り、静かに話し始めた。
 「あの外国人女性――アリシアは、僕がロンドン赴任時代に組んでいた通訳兼アシスタントです。彼女は数年前から僕の同僚の婚約者で、今はその婚約者と日本に来ています」
 「……婚約者?」
 「ええ。だから、あなたが思っているような関係では全くない。むしろ、僕にとっては妹のような存在です」

 思わず息を飲む。
 「じゃあ、なぜ何も説明してくれなかったんですか」
 「外交の場では、全てを説明することが最善とは限らない。余計な名前や関係を口にすれば、別の憶測や誤解を生むこともある」
 「……でも、それで私が誤解しても?」
 「そこは僕の落ち度です。あなたに関しては、最初から本音だけを話すべきだった」

 その言葉は、不思議と胸にすっと染み込んだ。
 私は無意識にグラスを手に取り、一口だけワインを口にした。
 葡萄の香りと共に、張り詰めていたものが少しだけ緩む。

 

 「もう一つ、正直に言わなければいけないことがあります」
 真壁の声色が変わる。
 「お見合いの話は、僕から望んだものです」
 「……え?」
 「表向きは両家の話し合いですが、僕があなたを指名しました」
 「どうして……私を?」
 「以前、ある経済シンポジウムであなたを見かけた。短い会話だったけど、言葉の選び方や相手を見る目が印象に残った」
 まるで初めて会った日の記憶を掘り起こすように、彼は続けた。
 「社交の場で多くの人に会うけれど、本心を隠さずに話す人は稀です。あなたはその数少ない一人だった」

 心臓が静かに早まる。
 あの日の会話は、私にとってはただの挨拶程度だった。
 それが、彼の中でこんなにも強く残っていたなんて。

 

 「藤崎さん……いや、美桜」
 名前を呼ぶ声が低く響く。
 「この二週間、あなたに会えない間、仕事も生活も淡々と進むはずなのに、心のどこかがずっと空いていました」
 彼の瞳は、いつもの冷たい光を失っている。
 「外交官としての僕ではなく、一人の男として、あなたをそばに置きたい」

 言葉が、真っ直ぐに胸に届いた。
 私が答えようと口を開いた瞬間、彼はそっと手を伸ばし、私の手を包んだ。
 その手の温もりが、何よりの証拠のように感じられた。

 「……明日、大事な会議があります。その後、正式にあなたに伝えたいことがある」
 「正式に?」
 「ええ。だから、今夜はここまでにしましょう」

 まるで告白の前夜のような空気を残し、私たちは夜景を見ながら短い時間を共有した。
 心はまだ揺れているけれど、確かに何かが変わり始めている。

 

 帰り際、エレベーター前で彼がふと立ち止まった。
 「美桜、明日の夜、また会ってくれますか」
 その問いに、私は初めて迷わず頷いた。
 「……はい」
 扉が閉まる直前、彼が見せた笑みは、今までで一番温かかった。
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