大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

第182話 二人が向き合う夜

店の看板に灯りが入ったのは、約束の時刻より少し前だった。

朱里はそれを見上げて、一度だけ深く息を吸う。

──逃げない。
──取り繕わない。
──でも、全部は言わなくていい。

第179話で絞り込んだ「話す内容」が、胸の奥で静かに整列している。

言葉はまだ完全な文章になっていないが、順番だけは決まっていた。

扉を押すと、鈴の音が小さく鳴る。

嵩は、すでに来ていた。

窓際の席。背中を少し丸めて、手元のカップを両手で包むようにしている。

視線が合った瞬間、どちらも声を出さなかった。

立ち上がることも、手を振ることもない。

ただ、同じ場所にいるという事実だけが、ゆっくりと二人の間に降りてくる。

朱里は一歩、また一歩と近づく。

嵩はその足音に合わせるように、ほんの少し姿勢を正した。

「……久しぶり」

先に口を開いたのは朱里だった。

思っていたより、声は落ち着いていた。

「うん。久しぶり」

嵩の返事も、短い。

けれど、その一言に余計な温度はなかった。

それが、今の朱里にはありがたかった。

二人は向かい合って座る。

テーブルの上には、まだ何も置かれていない。

注文すら、していない。

沈黙が来る。

けれど、それは“困った沈黙”ではなかった。

朱里は視線を一度だけ落とし、テーブルの木目をなぞるように見つめる。

そして、顔を上げた。

「今日は……ちゃんと話したくて来た」

嵩は頷くだけで、急かさない。

「全部じゃないけど」

朱里は言葉を選びながら続ける。

「私が、今どこにいるのか。その話」

嵩の指先が、わずかに動いた。

それでも、遮らない。

朱里は、自分の胸の鼓動を確かめる。
速すぎない。

逃げ出したくなるほどでもない。

──今なら、言える。

「私ね」

一拍置いてから、朱里は続けた。

「前みたいに、強い言葉を使えなくなった。でも……黙るのも、もう違うって思ってる」

嵩は、静かに息を吸う。

「うん」

それだけで、十分だった。

朱里は、初めて“自分の言葉”が相手に届く感覚を、確かに掴んだ気がした。

この夜は、まだ始まったばかりだ。
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