先生、迎えに来ました
「よし、タイミングがきたよ、ニャン太」

リビングのソファーに座ったひまりは、ニャン太を少し持ち上げてスタンバイした。
廊下の向こうで、扉が開閉する音が聞こえた。
高瀬がお風呂から出たのだ。真っ直ぐこちらに向かってくる気配がする。

背後で聞こえたリビングのドアが開く音を合図に、ひまりは少し大きな声でニャン太に話しかけた。

「課長はさ、『エクレアンスへは、うちから話を通しておきますよ』って先方に言ったの。そう言ったら先方の心が動くってわかってたから。なのにさ、今になって『契約書に記載はないから、やる必要はない』って言いだしてさ。先方からしたら気分悪いよね。どうしたらいいのかな、ニャン太」

ひまりがニャン太に話しかけている間、高瀬が冷蔵庫からなにかを取り出す音がした。
その後、シンクにコップを置く音と、こちらに歩いてくる気配。
そして、ひまりがちょうどニャン太に話し終えたタイミングで、ソファーまでやってきた高瀬は、ひまりから少し距離を取って座った。

ひまりは、ニャン太に視線を置いたまま、高瀬に向かって言った。

「私、こうやって毎日この子に話しかけるの。引くでしょ?」

すると、隣で高瀬がふっと笑ったのがわかった。

「ああ、ラバーダッキングですね。思考の整理には最適な方法だと思います。僕もやりますよ」
「え、嘘」

ひまりは高瀬を凝視した。

「エンジニアのデバッグ手法として有名なんですよ。僕も昔、開発をやってたときに知りました。心理学の分野でも活用されてますよ」

高瀬が穏やかにひまりに微笑んだ。

ひまりは、ニャン太を胸に抱いた。

今まで元カレたちに、「かわいいと思うよ」と主観的に肯定されたことはあった。
ほっとはしたが、薄々感じていた「自分は危ない人間なのではないか」という後ろめたさを拭うことはできなかった。

しかし今、高瀬が客観的に「理に(かな)った行為である」と肯定してくれた。
ずっと心に刺さっていた(とげ)が、するりと抜け落ちたようにひまりは感じた。

「ちなみに悩まれてる件ですが、会社としては見過ごせない状況なので、可能ならさらに上の方に相談された方がいいと思いますよ」
「やっぱりそうかな。課長は考え過ぎって言うんだけど」
「ひまりさんの感覚は正しいです」

高瀬は、ひまりの目を真っ直ぐ見て言った。
ひまりの胸に小さな火が灯ったような、温かさが広がった。

「……ありがとう。部長に相談してみる」

心が軽くなったひまりは、ソファーに背を預け、ニャン太の可愛い前足をパタパタさせた。

「会社として『やる』って言ったことをやらないのは、どうかと思うの。約束したなら果たす、できない約束はしない、これって大事なことじゃない?」

ひまりのその言葉に、高瀬が笑った。

「変わってないですね」
「え?」
「同じ言葉を、先生のときにも聞きました。ほら、僕が最初に婚約証書を出したとき」

高瀬に言われ、ひまりは当時を振り返った。

――あの日のことは今でも鮮明に覚えている。
なぜなら、高校生の高瀬が、大学生のひまりに向けて、結婚の約束を求めたからだ。
その衝撃といったらなかった。

センター試験も終わり、いよいよ国公立の出願をしようかという時期。
高瀬は、偏差値五十を切る状態から、センター試験の得点率が九割を超えるという目覚ましい快進撃を見せた。
当然、塾長や他の講師、周りがすべて高瀬に日本最高峰の国立大学への出願を期待した。
高瀬もそのことは承知しており、ひまりもそれを望んでいると考えたのだろう。
一枚の紙を差し出して、こう言ったのだ。

「先生がサインしてくれたら、東大受ける」

冗談めかして言った高瀬の目は、これまでに見せたことのないような真剣な光を宿していた――。

「僕はてっきり軽くサインしてくれると思ったんですよ。こんなの子どもの冗談だし、適当にサインして、東大合格の実績作りをすればいいと考えるかなって。塾長から、僕に東大を受けさせるように言われてたでしょう?」
「……うん」
「ですよね。でも先生はサインしなかったし、僕に東大を受けろとも言わなかった。今でも覚えてますよ。『自分の道は、自分で決めて』って言われたの」

その場面を思い出したのだろうか、高瀬は懐かしそうに笑った。

「そして、続けてこう言ったんです。『できない約束はしない。だからサインしない』って」

約束をした側はそれを忘れがちだが、された側はよく覚えていることを、ひまりは知っていた。
特に子どもはそうだ。
だから、塾の生徒相手に、不用意な約束はしないように意識していた。

「当時の僕にはとても衝撃的で、ますますひまりさんを好きになりましたね」
「なんでそっち行くの。振られてるじゃない」
「すでに何回も振られてたので、そこはあまり気にしてなかったです」

高校生の時の高瀬は、何度も「先生、俺と付き合って」とひまりに迫った。
その度にひまりは丁重にお断りしたが、高瀬はめげなかった。
思えば、高瀬の諦めの悪さは高校生の時分から露呈していた。
ただ、高瀬が告白するのは、模試の偏差値が上がったときだけだった。
きっと、彼なりにいろいろと考えているのだろうとひまりは思っていた。

「……子どもの冗談だなんて、一度も思ったことなかったよ」
「わかってます。だからひまりさんは、いつも言葉を選んで、丁寧に断ってくれた。婚約証書だって、僕の気持ちを真剣に受け取った上で、誠実な答えを返してくれました」

視線を落とした高瀬は、少し思案してから言葉を継いだ。

「いつだって、僕を子ども扱いしなかった。子どもの戯言(ざれごと)と流せそうな言葉も、ひまりさんは一つ一つ真面目に向き合ってくれました。そのことが、当時の僕にとってどれだけ救いになっていたか」

高瀬が、優しい目でひまりを見つめた。
ひまりは言葉を紡ぐことができず、ただ高瀬を見つめ返した。

「そんなひまりさんが好きだったし、今も好きです」

特に熱を込めるでもなく、静かに高瀬は言った。
それなのに、熱心に口説いてきた元カレたちの甘い言葉よりも、胸に染み込むのはなぜだろう。

ひまりはニャン太を強く抱きしめた。
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