先生、迎えに来ました
珍しく、彼女から誘ってくれたことに、高瀬は高揚せずにはいられなかった。
明日で約束の一か月となるが、彼女はどうするだろうか。
もしまだ判断がつかないのなら、同棲期間を延長すればいいと考えている。
ゆっくりでいい。
時が彼女との距離を縮めてくれるなら、いくらでも待つことはできる。

濡れた髪を乾かすのもそこそこに高瀬がリビングに行くと、彼女はソファーに座ってテレビを観ていた。
いつもならパジャマに着替えているはずなのに、今日はバスローブのままだ。
不思議に思いながら、ひとまず冷蔵庫から炭酸水を出して飲んだ。

ソファーに行き、彼女から少し離れて座る。
彼女を見ると、少しぎこちなく笑った。

「今日はね、これを観たいの。好きな映画なんだ」

そう言って彼女が画面に表示させたのは、数年前に話題となったラブストーリーだ。
展開は王道で、たしかラストにわりと長尺のセックスシーンがあったはずだ。

彼女はどういうつもりなのか。

真意はわからないが、彼女が望むなら従うまでだ。
高瀬はソファーに身を預けた。

映画は順調に進んでいく。
彼女はストーリーに夢中になっているようだった。
お気に入りの映画を一緒に観ようと思ってくれたのはとても嬉しい。

クライマックス、主役の二人がお互いの想いを確かめ合い、結ばれた。
そこからの自然な流れで、愛の営みが始まる。

男性向けのそういった映像とは違い、映画の表現はとても美しい。
とはいえ、刺激がまったくないと言えば嘘になる。
左隣には触れることができない愛する女性がいて、目の前には上品だが情熱的なシーンが映し出されている。

これは一体なんの拷問なのだろうかと高瀬が考え始めたとき、彼女が身じろぎした。

高瀬との間にあった距離を詰め、肩にもたれかかると、高瀬を見上げた。
まるで、画面に映っている女性のような目をしている。

突然のことに、高瀬の心臓は跳ねた。
こういった展開を期待していなかったわけではないが、それは自分から行動するものであって、まさか彼女から誘われるとは思ってもみなかった。

いつもの高瀬なら、すぐに腕を回し、抱き寄せてキスしていただろう。

キスなら何百回としてきた。
金と地位を得てから、女性に不自由することはなかった。
経験はある方だと自負している。

それなのに。

たった一人の女性を前に、いま自分は手も足も出せないでいる。
まるで、高校生の自分に戻ったかのようだ。

口の中がカラカラに乾いている。
なんとか絞り出した声は掠れていた。

「そんな風に見つめられたら、キスしたくなるんですが」

言葉にはしたものの、緊張に体を硬くした高瀬は動くことができなかった。
そんな高瀬にひまりが小さな声でささやいた。

「して……」

そこで、高瀬の脳はいつもの冷静さを取り戻した。

照明とテレビの音量を消すと、暗闇に熱っぽく抱き合う男女の映像だけが浮かび上がる。

彼女の頰に触れた右手の指が一瞬で熱を帯びた。

ゆっくりと顔を近づけ、そっと彼女の唇に自分のそれを重ねる。
柔らかな感触を味わったとき、まるで全身の血が逆流するかのような衝撃が高瀬を襲った。

そこからは、自分を止めることができなかった。
強引にならないよう最大限配慮しつつ、貪欲に彼女を求めた。

彼女の頬を両手で包むと、何度も唇をついばみ、少しずつ触れる時間を長くする。
たどたどしくも彼女が応えてくれたことが、高瀬を勇気づけた。
舌先で彼女の唇をなぞると、口が少し開いた。
すかさず舌を絡め、さらにキスを深くしていく。

高瀬の舌に応じる彼女は少しぎこちなかった。
力が入り硬くなっていることから、彼女が緊張していることが伝わった。

唇を離し、彼女を見ると、その目から不安の色が見て取れた。

少し性急だったかもしれない。
高瀬は彼女をリラックスさせるべく、キスから愛撫に切り替えた。

指先だけで背中から腰を優しく撫でながら、首や鎖骨にキスを落としていく。
息を呑んだ彼女が実に色っぽく、高瀬の血は沸き立った。
耳にキスをしながら彼女に尋ねる。

「ベッドに行きますか?」

すると彼女は(うつむ)いて首を振った。
違和感を覚えつつも、彼女をソファーに横たえると、再び唇を重ねた。
……硬い。
彼女の目も唇もきつく閉じられている。

なにかおかしい。

高瀬の心がざわめいた。
確かめるように、はだけたバスローブからしなやかに伸びる太腿に触れると、彼女の体が小さく跳ねて強張る。

そのときテレビの画面が明るくなり、彼女の表情を(あら)わにした。
これは緊張や恥じらいではない。
彼女は行為を楽しんでいないどころか苦痛に感じている。

高瀬は血の気が引くのを感じた。
すぐさま距離を取り、彼女を凝視する。
高瀬が離れたことに気づいた彼女が、上体を起こした。
両手を胸元で重ね握り締めると、怯えた顔で高瀬を見る。

先ほど引いた血が頭に上っていく。

「どうして誘ったんですか」

自分でもなぜこんなに腹が立つのかわからないが、とにかく怒りが込み上げどうしようもない。

「愛のないセックスなんか、お断りだ」

かろうじて残った理性で、怒鳴らないようにすることには成功したが、結局吐き捨てるような物言いになった。
彼女を見ることは、もうできなかった。

そのままリビングを後にし、車の鍵を持って家を出た。
背後で閉まる玄関のドアの音が、高瀬の胸に残酷に響いた。
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