先生、迎えに来ました
翌朝、いつもより遅い時間に高瀬が目を覚ますと、ひまりはすでにいなかった。

彼女はもうこの家に帰ってくることはないかもしれない、という不安がよぎったが、落ち着いて打てる手を打っておく。

真面目な彼女は、今日も必ず出社しているはずだ。

高瀬は電話をかけた。
コール二回で相手が出る。

「お久しぶりです、高瀬です。急で申し訳ないのですが、ご依頼したいことがありまして」

相手の承諾を受け安心すると、高瀬は日常を回し始めた。
いつ電話がかかってきてもいいように、スマートフォンは常にそばに置いておいた。

日差しが柔らかくなり、影が少しずつ伸び始める頃、電話がかかってきた。

「……はい。わかりました。すぐ行きます」

高瀬はマンションを出ると、ひまりの会社の方角へ歩き出した。



出社したはいいものの、全く仕事が手につかなかったひまりは、上司から早退するように言われた。
ビルを出ると、程よく涼しい風が通り過ぎていく。
秋の匂いがした。

思わぬ早退で時間が空いたが、特に行きたい場所もない。
とりあえずひまりは高瀬の待つ家に向かって歩き出した。

会社からマンションまでは徒歩で十五分くらいだ。

帰って高瀬と顔を合わせたら、どのように振舞えばいいのだろう。
先ほどからそればかり考えているが、一向にいい答えが見つからない。

足取りがだんだん重くなる。

ひまりは、帰り道にある公園のベンチで少し落ち着くことにした。
幸い今日は、誰もいない。

少し離れた場所で土をつついている雀を見ながら、昨夜のことを振り返った。

高瀬にキスされることも、触れられることも嫌ではなかった。
むしろ、今までに感じたことのない甘い痺れが全身を襲い、腰が砕けそうだった。
しかし、キスに上手に応えられない自分を自覚してから、徐々に罪悪感がわきあがってきた。
高瀬が一つ一つの行為で愛を伝えてくれているのに、自分は愛がないことを彼に突きつけようとしている。
なんて残酷なことをしているのだろうと気づいたとき、心が固く閉じ、全身で高瀬を拒絶してしまった。

ひまりから距離を取り、引きつった顔でこちらを見ていた高瀬の姿が思い起こされる。

過去の男性たちのように、高瀬もひまりから去っていく。
そうなったらもう二度と高瀬に会うことはないだろう。
そして彼は、ひまりよりも素敵な女性と出会い、結婚して幸せになる。

想像して息が詰まり、苦しくなった。
それと同時に、ある事実を認めざるを得なかった。

「……離れたくない……」
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