先生、迎えに来ました
ひまりはいわゆる隠れ家レストランというところで、もてなされていた。
提供されたお酒と料理はとてもおいしく、ひまりはそれを楽しんだが、高瀬との会話は当たり障りのない話題が続いていた。
食事を終えた皿はすべて下げられ、残るはデザートのみとなった。
結婚など冗談だったのではないかとひまりが考え始めたとき、高瀬が財布からなにかを取り出した。
丁寧に広げてひまりの前に差し出す。
「これに見覚えはありませんか?」
八つ折りにされたA4用紙には、『婚約証書』と印字されていた。
その下には二人が将来結婚する旨が記されており、その効力が生じるのは、ひまりが三十四歳の誕生日を迎えたうえで、独身である場合とされていた。
そして最下段には、高瀬蓮と佐藤ひまり、それぞれの直筆のサインが並んでいる。
それは確かに、ひまりの字だった。
「これ……! あのとき、ちゃんと断ったはずだよ?」
そう、たしかに断ったのだ。そして、記憶では年齢と独身の記載はなかった。
「そうです。一度断られました。でもその後、僕が三十歳になったら考えてもいいって言われました」
「そんなこと、言った?」
「結婚するなら、若いときにたくさん遊んで、落ち着いた頃合いの男性がいい。それの最低ラインが三十歳、って話していた流れで」
「大学生のくせにそんなこと言ってたの⁉︎」
「いとこのお姉さんの受け売りだとか」
「あー……」
「なので、僕が三十になった年の、さらに先生が誕生日を迎えた日を効力発生日として作り直しました」
末恐ろしい高校生だ、とひまりは思った。
「待って……私がこれサインしたのいつ?」
「前期日程の日です」
記憶の糸が繋がった。
あのとき、確かにこの婚約証書を見せられた。
「先生がサインしてくれたら、すぐ行く」
と高瀬は言い、バインダーに挟んだこの紙とボールペンをひまりに渡したのだ。
ひまりは目を通し、「ありえない!」と即座に思った。
しかし、ひまりがサインしない限りテコでも動かないであろう高瀬の強い意志を感じたのと、さすがに三十四までには自分も結婚しているだろうと安易に考え、急いでサインしたのだった。
入室終了時間まで十分を切っていたという切迫した状況が、ひまりの思考を大いに鈍らせた。
いま思えば、これは高瀬の戦略だったのだろう。
ひまりがサインをし終えると、高瀬はまるでおもちゃを買ってもらった子どものように、それを嬉しそうに受け取った。
「約束だからな!」と笑顔で言うと、「絶対、合格するから!」と言い残して走っていった。
「なんで忘れてたんだろう……」
あの笑顔から想像するに、婚約証書が高瀬にとってどれほど大きな意味を持つものか、あのときのひまりもわかっていたはずだ。
それを今日まですっかり忘れていたなんて。
「お身内に不幸があったと塾長に聞きました」
高瀬が、ひまりを気遣うように静かな声で言った。
「そうだった……。高瀬君の合格も、ちゃんとお祝いできなかったね。ごめんね」
「当然ですよ。気にしないでください」
顔を上げると、高瀬が優しさと戸惑いの混じった表情でこちらを見ていた。
ひまりは居住まいを正して微笑んだ。
「今さら遅すぎるけど、合格おめでとう」
高瀬は少し照れた様子で「ありがとうございます」と答えた。
提供されたお酒と料理はとてもおいしく、ひまりはそれを楽しんだが、高瀬との会話は当たり障りのない話題が続いていた。
食事を終えた皿はすべて下げられ、残るはデザートのみとなった。
結婚など冗談だったのではないかとひまりが考え始めたとき、高瀬が財布からなにかを取り出した。
丁寧に広げてひまりの前に差し出す。
「これに見覚えはありませんか?」
八つ折りにされたA4用紙には、『婚約証書』と印字されていた。
その下には二人が将来結婚する旨が記されており、その効力が生じるのは、ひまりが三十四歳の誕生日を迎えたうえで、独身である場合とされていた。
そして最下段には、高瀬蓮と佐藤ひまり、それぞれの直筆のサインが並んでいる。
それは確かに、ひまりの字だった。
「これ……! あのとき、ちゃんと断ったはずだよ?」
そう、たしかに断ったのだ。そして、記憶では年齢と独身の記載はなかった。
「そうです。一度断られました。でもその後、僕が三十歳になったら考えてもいいって言われました」
「そんなこと、言った?」
「結婚するなら、若いときにたくさん遊んで、落ち着いた頃合いの男性がいい。それの最低ラインが三十歳、って話していた流れで」
「大学生のくせにそんなこと言ってたの⁉︎」
「いとこのお姉さんの受け売りだとか」
「あー……」
「なので、僕が三十になった年の、さらに先生が誕生日を迎えた日を効力発生日として作り直しました」
末恐ろしい高校生だ、とひまりは思った。
「待って……私がこれサインしたのいつ?」
「前期日程の日です」
記憶の糸が繋がった。
あのとき、確かにこの婚約証書を見せられた。
「先生がサインしてくれたら、すぐ行く」
と高瀬は言い、バインダーに挟んだこの紙とボールペンをひまりに渡したのだ。
ひまりは目を通し、「ありえない!」と即座に思った。
しかし、ひまりがサインしない限りテコでも動かないであろう高瀬の強い意志を感じたのと、さすがに三十四までには自分も結婚しているだろうと安易に考え、急いでサインしたのだった。
入室終了時間まで十分を切っていたという切迫した状況が、ひまりの思考を大いに鈍らせた。
いま思えば、これは高瀬の戦略だったのだろう。
ひまりがサインをし終えると、高瀬はまるでおもちゃを買ってもらった子どものように、それを嬉しそうに受け取った。
「約束だからな!」と笑顔で言うと、「絶対、合格するから!」と言い残して走っていった。
「なんで忘れてたんだろう……」
あの笑顔から想像するに、婚約証書が高瀬にとってどれほど大きな意味を持つものか、あのときのひまりもわかっていたはずだ。
それを今日まですっかり忘れていたなんて。
「お身内に不幸があったと塾長に聞きました」
高瀬が、ひまりを気遣うように静かな声で言った。
「そうだった……。高瀬君の合格も、ちゃんとお祝いできなかったね。ごめんね」
「当然ですよ。気にしないでください」
顔を上げると、高瀬が優しさと戸惑いの混じった表情でこちらを見ていた。
ひまりは居住まいを正して微笑んだ。
「今さら遅すぎるけど、合格おめでとう」
高瀬は少し照れた様子で「ありがとうございます」と答えた。