先生、迎えに来ました
「あれ? これコピーじゃない?」

ひまりは、手元にある婚約証書の違和感に気づいた。

「財布に入れてると次第にボロボロになりますから」
「なんで財布に入れてるの……」

怪訝な顔で高瀬を見ると、高瀬はふっと笑った。

「これは、あの日からずっと僕の支えだったからです。事業に失敗して打ちのめされたときとか、会社のお金を持ち逃げされて死にたくなったときとか……ありとあらゆるときに、この婚約証書を見て、なんとか自分を奮い立たせてここまでやってきました」

本当にこの紙は高瀬にとって大事なものらしい。
ひまりが捨て鉢に書いたサインが、十二年も彼の拠り所となっていた。
事の重大さが、じわじわとひまりに迫ってくるように感じた。

一つ気になった単語があった。

「会社?」
「はい。僕、会社持ってるんで。今は部下に社長を任せて、オーナーやってます」

三十歳とはいえ、同年代の会社の同僚とは違うこの余裕と落ち着き、立ち振る舞いに、身につけているもの、高級車……ひまりは全てに合点がいった。

高瀬は人懐っこい笑みを浮かべてさらに続けた。

「会社にも僕個人にも結構資産があるので、お金の心配はないですよ。結婚したくなりました?」
「……なってない」
「手強いですね」

さらに、再会したときに気になったことを思い出した。

「なんで私の勤め先と、私が独身だってことを知ってるの?」

ひまりが恐る恐る尋ねると、高瀬は目をそらして静かに言った。

「お金って便利ですよね」

ひまりは絶句した。
心を尽くして指導した生徒が、十二年の時を経てストーカーになっていた。
悲しみと呆れと少しの恐怖を混ぜた顔で高瀬を見ると、高瀬は罰の悪そうな顔をした。

「合格したら、先生に連絡先を教えてもらうつもりだったんです。でもそれが叶わなかったから、今の自分の持てる力を全て使いました」

それを聞いて、ひまりの心は少し痛んだ。
そういえば当時、何度か高瀬に連絡先を聞かれたが、「合格したらね」とかわしていたのだ。

高瀬が真剣な眼差しでひまりを見つめた。

「どんな手を使っても、もう一度会って話したかった。許してください」

あまりに真摯な言葉に、ひまりは心を打たれ、一瞬全てを受け入れてしまいそうになった。

「そんな真っ直ぐに言われたら、もう何も言えないじゃない」
「それじゃあ僕と結婚――」
「――するとは言ってない」

しかし、すぐに理性を取り戻した。

高瀬が真剣なのはわかった。
しかしひまりには、高瀬が高校生の時に抱いた憧れを引きずっているだけにしか思えなかった。
憧憬(しょうけい)は、社会に出て様々な出会いや経験をすることで薄れていくものだ。
だからひまりは、高瀬に「たくさんの女性と関わってね」とあのとき伝えた。
高瀬のスマートかつ女性慣れした振る舞いから察するに、当時の“指導”はそれなりに功を奏したのだろう。

それなのに、高瀬は未だひまりに囚われている。

ひまりのすげない表情に、高瀬はため息をついた。

「僕は、その婚約証書を支えにして今日までやってきました。でも、それに法的拘束力はありません」

ひまりは婚約証書を高瀬に差し出した。
高瀬は受け取ると、慈しむような視線を落とした。

「ただ、先生がサインしたのは事実だし、約束は約束です。僕にチャンスくらいはくれるでしょう?」

高瀬はそう言うと、再びひまりを見つめた。
穏やかな笑みを浮かべているが、静かな威圧感がある。

不本意なサインだが、約束であることは確かだ。
約束したなら果たすというのがひまりの信条だった。

「今すぐ結婚は無理だけど、検討の余地はある。かも」

高瀬から目をそらし、ひまりは答えた。
精一杯の譲歩だ。
ちらりと高瀬を盗み見ると、高瀬の顔は喜びに輝いていた。

「それじゃあ、まず同棲しましょう!」
「なんでそうなるの。お付き合いから始めるのが普通でしょ」
「僕は十二年も待ったんです」
「そんなこと言われても、いきなり同棲なんて……」
「同棲した方が、早く結論を出せて効率的ですよ」

高瀬は、まるでひまりが「イエス」ということを確信しているような顔だ。

「……一か月」

ひまりの言葉に、高瀬の目の奥が光った。

「一か月だけチャンスをあげる」

そしてその間に、私はあなたを「私という鎖」から解放する。

高瀬は上品かつ不敵に微笑んだ。

「十分です」
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