先生、迎えに来ました
2.それぞれの思惑
佐藤ひまりという女性は、高瀬にとって唯一の居場所だった。

彼女を自宅まで送り届け、これから彼女と一緒に住むことになった新居に向けて車を走らせながら、高瀬は過去に想いを馳せた。

――高瀬の家庭は、わりと裕福な方だった。
私立の中高一貫校の学費や、高額な塾費用に関して、両親のどちらからも嫌味など一切言われたことがない。

中学生までは平和で平凡な家庭だったと記憶している。
おかしくなったのは、高瀬が高校生になってすぐの頃だ。

まず、父と母が毎晩喧嘩するようになった。原因はわからない。
母が泣き、父が怒鳴って家を出ていくことが日常茶飯事となり、次第に父はあまり家に帰らなくなった。
そのうち、母が一人息子の高瀬にやたらと固執するようになった。
高瀬の人生に自分の人生を重ね、高瀬を思い通りに“仕上げる”ことで、己を満たそうとした。
いい大学に進学しろ、大手に就職しろ、父のようにはなるなと、毎日呪いのように聞かされた。

高校進学時は六十前半で推移していた偏差値が、模試を受ける毎に低下した。
勉強への意欲と関心はそがれ、ひたすら部活に熱中した。
走ることは好きだった。
走っている間は、余計なことを考えなくて済む。
音がなくなり風と一体になるあの時間だけが、唯一、生を実感できた。
しかし、高校二年の冬に足を故障した。休養中に大会の選手枠は後輩のものとなった。
三年に上がる直前に、高瀬は部活を辞めた。

高校三年の春、高瀬の成績のあまりの悪さに、母が塾の個別指導のコースを申し込んだ。
この頃の模試の偏差値は五十を切っていた。
それまでも集団指導の授業を受けていたが、教室にいるだけで話も聞かずただぼんやりしているだけの高瀬の成績が上がるはずもなかった。
勉強は好きではなかったし、いい大学に進学することにもなんの意味も価値も見いだせなかった。
それなのになぜ塾には大人しく通っていたかというと、母のいる家にいるよりは、はるかにマシだったからだ。

操り人形のように、ただ言われるまま車に乗り、塾の前で降ろされると、夢遊病者のように校舎に入った。
教室に行く気にもなれず、入り口近くの壁に貼られた合格者たちの写真やコメントを見ているふりをした。
そのときに出会ったのが、佐藤ひまりという女性だった。
当時の高瀬にとって、大学四年生の彼女はとても大人に見えたし、魅力的に映った。
初めて彼女が笑うのを見たとき、まるで空気ごと入れ替わったように、その場が明るくなったことを今でも覚えている。
常に自分にまとわりついていた重い空気の塊のようなものが霧散し、自分が呼吸していることを思い出した。
人形ではなく、意志を持った人間であることを思い出したのだ。

「八月生まれだから、『ひまわり』から名前をとって『ひまり』にしたんだって。『佐藤』がありふれてるから、名前は個性を出したかったって言ってた。変わってるでしょ」

自己紹介の後、そう言って彼女は笑った。

陽だまりのような笑顔の彼女に、“ひまり”という名前はピッタリだと高瀬は思った――。

マンションの駐車場に車を停めた時点で、日付はとうに変わっていた。
彼女の自宅から、会社近くのこの場所までは、思ったより距離があった。
電車にして何分くらいなのだろうか。
ここに引っ越すことで、彼女の通勤の負担が減ればいいと高瀬は思った。

エレベーターを降り、鍵を開けて、中に入る。
必要な家財はすべて揃えられ、見た目だけは完璧な住まいだ。
今は眠ったようなこの部屋も、彼女を迎えることで目を覚ますだろう。

彼女の笑顔をもう一度見たい。
願わくば、死ぬまでの残りの時間を、一秒でも長くあの笑顔と共に生きたい。

祈りにも似たこの願いを叶えるために、高瀬は今日まで積み上げてきた。

あの笑顔を守れるのなら、他にはなにも望まない。
愛されなくても構わない。

結婚することにメリットがあるから。
ただそれだけの理由で選んでもらえれば十分だ。

そのために必要なものは全て整えた。
あとは、彼女が選びたくなるように、静かに示していくだけだ。

今日は十二年ぶりによく眠れそうだ。
高瀬はベッドに身を沈め、目を閉じて彼女のことを想った。
< 5 / 22 >

この作品をシェア

pagetop