先生、迎えに来ました
3.愛の深さが違いますから
土曜日。
電気、ガス、水道、窓を確認し、ひまりは家を後にした。
荷物は六十リットルのスーツケース一つと、いろいろ詰め込んだ仕事用の鞄。
マンションのエントランスを出ると、高瀬の車が駐車されていた。
ひまりを確認した高瀬が運転席から降りてくる。
「じゃあ、行きましょうか。ひまりさん」
ひまりがやっとの思いで運んできたスーツケースを軽々と片手で持ち上げると、高瀬はさらっとひまりの名を呼んだ。
ひまりは息を呑んだ。
「もう、先生と生徒じゃないですから。でしょう?」
高瀬は目を細めて微笑んだ。
「そ、そうだね」
名前を呼ばれた、ただそれだけのことなのだが、ひまりは高瀬の目を見ることができなかった。
高瀬が助手席のドアを開けると、ひまりは無言でそこに乗り込んだ。
遅れて高瀬が運転席に座る。
センターコンソール越しの距離は前回と変わらないはずなのに、今日はやけに高瀬が近く感じられて、ひまりは少し緊張した。
「出発しますね」
「うん」
車はなめらかに発進した。
車内には、控えめなボリュームで洋楽がかかっている。
ひまりはしばし女性歌手の掠れたセクシーな歌声に耳を傾けた。
「緊張してますか?」
高瀬が穏やかな声で尋ねた。
「……うん、実は。同棲って初めてだし」
「僕のことは、執事だと思ってくれたらいいですよ」
「ええ? なにそれ」
思わず高瀬の方を見ると、高瀬はひまりに視線を向け微笑んだ。
「ひまりさんは今日から一か月、執事付きのホテル暮らしをするような感覚でいてください」
「……お嬢様?」
「そうですね。そんな心持ちで」
真剣な表情と声音で反応したひまりに、高瀬は笑った。
「同棲って、そういうものだったっけ?」
「お互いが一緒に生活していけるかどうかを見極めるのが同棲だと思ってますよ」
「うん、そうだよね」
「僕はどんなひまりさんとでも生活していける自信があるので、まずはひまりさんに僕という存在に慣れていただき、かつ僕の有用性を理解していただきたいと思っています」
「なんか、話し方まで執事っぽい」
「お気に召しましたか? お嬢様」
「やだもう、やめて」
ひまりは可笑しくなって笑った。
そんなひまりを見て高瀬が微笑む。
「本当に執事キャラでいくの?」
「話し方は置いておいて、スタンスはそのつもりですよ」
「それって、高瀬君にとってメリットがないと思うんだけど」
「そんなことはないですよ。僕はひまりさんと一緒にいられたら幸せなので」
「……さらっとそういうこと言う」
「本心ですから」
高瀬の表情はとても穏やかで涼やかだ。
「それに、執事くらいの距離感でいないと……」
信号で車が停止した。
高瀬はハンドルから片手を離すと、助手席のシートに腕をかけた。
身を乗り出し、ひまりに顔を寄せる。
「今夜から襲ってしまいそうなので。困るでしょう?」
目を細め、不敵に笑う高瀬の目には、冗談とも本気ともとれる色が映った。
「そ、それは困ります。とっても困ります」
ひまりは目を見開き、最大限身を引いた上で、口早に答えた。
そんなひまりに、ふっと微笑むと、高瀬は体勢を元に戻し、いつもの丁寧な口調で言葉を継いだ。
「なので、自制を利かせるための工夫ってやつです」
ひまりの心臓は、未だ早鐘を打つように鼓動していた。
信号が青に変わり、景色が再び流れ出す。
「ひまりさんの嫌がることはしません。安心してください」
やはり高瀬の口調は穏やかだ。
ひまりは何度か深呼吸して心臓を落ち着かせた。
遠慮がちに高瀬に問う。
「一か月も一緒にいて、なにもなくて……その、平気なの?」
ひまりだって恋愛経験が少ないわけではない。
結局いつも振られてはいるが、最初は相手の方から強く求められて交際が始まっていたのだ。
当然、男性が意中の女性に対して持つ欲求に関しては理解していた。
高瀬は少し驚いたような顔をしたが、すぐに表情を戻すと、静かに答えた。
「正直なところ、平気ではないですよ。でも、自分の欲求をぶつけて、それでひまりさんに嫌な思いをさせてしまったら、僕は自分を一生許せない」
高瀬の表情から一瞬笑顔が消えた。
しかし、ひまりの視線に気づき、また穏やかな表情をつくる。
「それに、愛のないセックスは虚しいだけですから」
「……愛がないって、わかるもの?」
「わかりますよ。体を重ねたらわかります。たぶん、男はみんなそうじゃないかな」
「そうなんだ……」
窓の外を流れる景色を見ながら、ひまりから去っていった男性たちのことを思い浮かべた。
彼らには、ひまりの本心が透けて見えたのだろう。
ひまりが少し沈鬱な面持ちでいると、沈黙を破るかのように、今度は、冗談だとわかる茶目っ気のある笑顔で高瀬が言った。
「本当は、今すぐにでもキスしたいですけどね」
高瀬の気遣いに、ひまりも笑顔で呼応した。
そして、感嘆を込めてつぶやいた。
「そんな我慢強い男性、いなかったよ……」
「僕は愛の深さが違いますから」
高瀬はさも当然のように、さらっと言った。
ひまりは、高瀬に主導権を握られている状況を自覚した。
高瀬の憧れは十二年という年月によって深化している。
憧れも想い続けると本物の愛に変化するのかしら?
ふとそのような考えが浮かんだが、かぶりを振って頭から追い出した。
電気、ガス、水道、窓を確認し、ひまりは家を後にした。
荷物は六十リットルのスーツケース一つと、いろいろ詰め込んだ仕事用の鞄。
マンションのエントランスを出ると、高瀬の車が駐車されていた。
ひまりを確認した高瀬が運転席から降りてくる。
「じゃあ、行きましょうか。ひまりさん」
ひまりがやっとの思いで運んできたスーツケースを軽々と片手で持ち上げると、高瀬はさらっとひまりの名を呼んだ。
ひまりは息を呑んだ。
「もう、先生と生徒じゃないですから。でしょう?」
高瀬は目を細めて微笑んだ。
「そ、そうだね」
名前を呼ばれた、ただそれだけのことなのだが、ひまりは高瀬の目を見ることができなかった。
高瀬が助手席のドアを開けると、ひまりは無言でそこに乗り込んだ。
遅れて高瀬が運転席に座る。
センターコンソール越しの距離は前回と変わらないはずなのに、今日はやけに高瀬が近く感じられて、ひまりは少し緊張した。
「出発しますね」
「うん」
車はなめらかに発進した。
車内には、控えめなボリュームで洋楽がかかっている。
ひまりはしばし女性歌手の掠れたセクシーな歌声に耳を傾けた。
「緊張してますか?」
高瀬が穏やかな声で尋ねた。
「……うん、実は。同棲って初めてだし」
「僕のことは、執事だと思ってくれたらいいですよ」
「ええ? なにそれ」
思わず高瀬の方を見ると、高瀬はひまりに視線を向け微笑んだ。
「ひまりさんは今日から一か月、執事付きのホテル暮らしをするような感覚でいてください」
「……お嬢様?」
「そうですね。そんな心持ちで」
真剣な表情と声音で反応したひまりに、高瀬は笑った。
「同棲って、そういうものだったっけ?」
「お互いが一緒に生活していけるかどうかを見極めるのが同棲だと思ってますよ」
「うん、そうだよね」
「僕はどんなひまりさんとでも生活していける自信があるので、まずはひまりさんに僕という存在に慣れていただき、かつ僕の有用性を理解していただきたいと思っています」
「なんか、話し方まで執事っぽい」
「お気に召しましたか? お嬢様」
「やだもう、やめて」
ひまりは可笑しくなって笑った。
そんなひまりを見て高瀬が微笑む。
「本当に執事キャラでいくの?」
「話し方は置いておいて、スタンスはそのつもりですよ」
「それって、高瀬君にとってメリットがないと思うんだけど」
「そんなことはないですよ。僕はひまりさんと一緒にいられたら幸せなので」
「……さらっとそういうこと言う」
「本心ですから」
高瀬の表情はとても穏やかで涼やかだ。
「それに、執事くらいの距離感でいないと……」
信号で車が停止した。
高瀬はハンドルから片手を離すと、助手席のシートに腕をかけた。
身を乗り出し、ひまりに顔を寄せる。
「今夜から襲ってしまいそうなので。困るでしょう?」
目を細め、不敵に笑う高瀬の目には、冗談とも本気ともとれる色が映った。
「そ、それは困ります。とっても困ります」
ひまりは目を見開き、最大限身を引いた上で、口早に答えた。
そんなひまりに、ふっと微笑むと、高瀬は体勢を元に戻し、いつもの丁寧な口調で言葉を継いだ。
「なので、自制を利かせるための工夫ってやつです」
ひまりの心臓は、未だ早鐘を打つように鼓動していた。
信号が青に変わり、景色が再び流れ出す。
「ひまりさんの嫌がることはしません。安心してください」
やはり高瀬の口調は穏やかだ。
ひまりは何度か深呼吸して心臓を落ち着かせた。
遠慮がちに高瀬に問う。
「一か月も一緒にいて、なにもなくて……その、平気なの?」
ひまりだって恋愛経験が少ないわけではない。
結局いつも振られてはいるが、最初は相手の方から強く求められて交際が始まっていたのだ。
当然、男性が意中の女性に対して持つ欲求に関しては理解していた。
高瀬は少し驚いたような顔をしたが、すぐに表情を戻すと、静かに答えた。
「正直なところ、平気ではないですよ。でも、自分の欲求をぶつけて、それでひまりさんに嫌な思いをさせてしまったら、僕は自分を一生許せない」
高瀬の表情から一瞬笑顔が消えた。
しかし、ひまりの視線に気づき、また穏やかな表情をつくる。
「それに、愛のないセックスは虚しいだけですから」
「……愛がないって、わかるもの?」
「わかりますよ。体を重ねたらわかります。たぶん、男はみんなそうじゃないかな」
「そうなんだ……」
窓の外を流れる景色を見ながら、ひまりから去っていった男性たちのことを思い浮かべた。
彼らには、ひまりの本心が透けて見えたのだろう。
ひまりが少し沈鬱な面持ちでいると、沈黙を破るかのように、今度は、冗談だとわかる茶目っ気のある笑顔で高瀬が言った。
「本当は、今すぐにでもキスしたいですけどね」
高瀬の気遣いに、ひまりも笑顔で呼応した。
そして、感嘆を込めてつぶやいた。
「そんな我慢強い男性、いなかったよ……」
「僕は愛の深さが違いますから」
高瀬はさも当然のように、さらっと言った。
ひまりは、高瀬に主導権を握られている状況を自覚した。
高瀬の憧れは十二年という年月によって深化している。
憧れも想い続けると本物の愛に変化するのかしら?
ふとそのような考えが浮かんだが、かぶりを振って頭から追い出した。