告発のメヌエット
第15話 発起
ジョージ先生のピアノレッスンが始まって2週間。
夏休みも残り2週間というところで、アリスはバッハのメヌエットを演奏できるようになっていた。
「うん、よく頑張ったね。
でもね、君の演奏からはバッハの個性が感じられないんだ。
楽譜に隠された、『気難しいおじさま』のメッセージを読み解くことが出来れば、この曲の意味が分かると思うよ。」
「気難しいおじさま?」
「そうだよ、どの肖像画を見てもバッハって、『むすっ』としているでしょう。」
「あはは、そうね。作曲家の肖像画って、どれも仰々しくて真面目な顔をしているわね。」
「でもね、バッハも言いたいことを楽譜に書いてあるんだよ。
例えばここ、今まで左手が一音だったのが、2音重なっていて、別々になっているでしょう?
一つにしなかったのはね、『ここの音は二人で歌うように』してほしいって意味なんだ。」
「そうなんだ。知らなかったなぁ。」
「それからこの曲はワルツだから、本来は踊るための曲なんだ。
最初は出会ったばかりのパートナーが少し動いて遠慮がちに様子を見ているのがわかるかな?」
「三拍子の曲なのに、フレーズが次の小節に入っているわ。」
「それはね、出会ったばかりで、ちょっと相手の様子を見ているところかな。
だからすぐにはワルツのリズムには乗れてないんだよ。」
「ふふっ、なんだか素敵ね。」
「そうだね、だからここは四拍と、二小節目の後ろの二拍は軽く跳ねるように感じるといい。
少し遠慮がちにすると雰囲気が出るでしょ?
それからいよいよ三拍子が流れるようにワルツのリズムに身をゆだねて躍るんだよ。」
「あはは、面白いですね。こんな感じかな。」
アリスはアドバイスを参考に曲に表情を付けていった。
「そうだね、昔はその場の演奏に合わせて、ワルツを踊ることもあったでしょう?
演奏者の気分やその場の雰囲気で、いろいろな演奏スタイルがあったのだよ。
だからこの曲には強弱記号がついていない。」
「本当だ、自由にしていいんだね。」
「でもね、そこはバッハの気分になって、階段を上るときはだんだん強く、下るときはだんだん弱く。
一番高い音は気分よく!」
ジョージ先生がバッハの気分で演奏する。
楽譜に忠実に、しかし生き生きと演奏していた。
「ふんわりしたフレアードレスの貴婦人が、殿方と一緒にワルツを踊る姿を想像してごらん。
かつらをかぶったバッハが、その光景に微笑みながら、軽やかに鍵盤を叩いているのを想像してみて。」
「あーはっはっは、もう駄目、先生おかしすぎるよ。」
アリスは笑いをこらえることが出来ない。
「さて、ここからはアリスの出番だ。この曲を弾いて、聴く人を楽しくさせてごらん。
アリスのメヌエットを聞かせてほしい。できるかな?
それが次回までの宿題。
それができたら学校でピアノデビューだね。」
「はい、頑張ってみます。」
「よろしい、では今日のレッスンはここまで。」
レッスンの様子を見ていた私も、思わず微笑んでしまうくらいの楽しい音楽だった。
私は先生を見送り、アリスに目を向けると、
「うん、なんとなくイメージはつかめたわ。あとは練習ね。」
そう言ってしばらくピアノに向かっていた。
「私はピアノを弾いてサロンパーティーに出るの。
これはお父様と一緒に描いた私の夢で、今は私の目標ね。」
しっかりした声でアリスは私に想いを話した。
この子なりにどう生きていくか考え始めたのだな。
それなら私にもできることを探さないとならない。
カミル亡き今、身を立てる術を考えなければならない。
いつまでもこうして暮らしていけるわけはないのだから。
「ねぇお母様、私が学校でのピアノデビューをするときには、
どのような格好がいいのでしょうね。」
アリスからは、学校でピアノを弾くときの服を頼まれていた。
「うーん、困ったわね。
女性の音楽家はこの国には少ないし……。
そうね、ソプラノ歌手のようなドレスはどうかしら。
あまり派手ではないすっきりしたデザインがいいわね。」
私は何気なく、アリスの話を基にデザイン画を描いていると、カイルがのぞきこんで、
「うわぁ、お母様上手。僕の服もこうやって描いてくださったの?」
「ええ、そうよ。初めはどんな服にするかこうして絵を描くのよ。
それから仕上がりをイメージして一枚ずつ絵を描くの。
それから大きな紙に書いて、型紙にするのよ。
型紙通りに切った布を縫い合わせていくと、服ができるのよ。」
「大変な作業なんだね。」とアリスも加わる。
「この前お母様がサラに作ってくれた服はね、とても評判がいいのよ。
他の侍女たちも欲しいって言うくらいだったから。」
「サラは女の子だから小さいのだけれど、大人用に大きくするのは、どうかしらね?」
「同じものを大きくすることはできないの?
そうすれば出来上がった服を渡せばいいのよ。」
「服はサイズを測って仕立屋が作るものよ。
型紙があるからできないこともないのだけど……でも面白そうね、ちょっと作ってみようかしら。」
この時代、服は仕立てて作るものだった。
平民は簡素な服を使いまわして着るのが一般的で、富裕層が着た物は古着として流通していたが、庶民にはこれも高価なものだった。
「もしも仕立てるよりも安く服が作れたなら、買ってもらえるだろうか。」
都市部に人が集まり、労働者も増えたこと、女性も働いている人が増えてきたことを考えると、今までのように家庭で服を作ることは難しい時代になっていた。
「そうね、アリス。
試しにやってみる価値はありそうね。
上手くいけば私の仕事にもなるし、お針子たちを雇うことだってできるわね。」
私はこの構想を父に相談した。
「そうか、コレットにも商売に参加できるものがありそうか。
ならばやってみるとよい。
デザインの道具などは商会で準備しよう。」
「とりあえず今家にいる使用人の服を作ってみようと思うの。
大体似たような体形ですし、少し大きなものと小柄なものを作れば、それで足りると思うのです。
輸入品の布地を使えばそれほどお金もかからないでしょう。」
「ふむ、いいだろう。
まずは使用人たちに着せてみて、よければ商品として店頭に並べよう。」
「ありがとうございます。
私もいつまでもお父様に甘えてばかりではいられませんもの。」
「そうだな、いずれお前にも商売をと思っていたのでな。
成功を祈っているよ。
そうと決まればさっそくデザイン用品だな。」
「トーマス!」
ほどなくトーマスが部屋に来た。
「じつはな、コレットが服のデザインをしたいそうなのだ。
デザイン用の道具は揃えられるか?」
「ええ、もちろんです。
一部取り寄せもありますが、おおむね揃うでしょう。」
「では頼んだ。それからまずはこの家のお針子たちで服を作り、それを使用人たちに着てもらって感想を聞きたいそうだから、そのつもりでいてくれ。」
「それは願ってもないことです。
それでは仕立屋の店先のように、服を着せる人形も必要ですな。」
「うむ、それもいいだろう。布地の選択はコレットと相談するように。
服が安くなれば、これからの時代は、服は買うものに変わっていくだろう。」
父には商売人としての鼻が利いたらしい。
「それから商売となると、何か呼び名が必要だな。
どうだろう?
『コレットがデザインした服』というのがわかるものがいいな。」
「コレット・コレクションだから、頭文字で『C・C』はどう?
服の一部に、ブランドの証として小さな刺繍を施すのはどうかしら。」
「そうだな。それを店の従業員に着せて、客に実際の着用感を見せるのはどうだ?
それから店頭にも人形が着ているわけだな。」
「ええ、同じものが欲しいと思うでしょう。
同じ型紙で布地を変えて、いくつか色違いを作ってみようと思います。」
「それもいいだろう。
ただ客層が広がらないな。
ほかにどんなものが作れる?」
「アリスの音楽会用にシンプルなドレスをデザインしますので、それを大人用に作り変えてみようかと。」
「そうだな、それは貴族のご婦人に喜ばれる。
うちは貴族の屋敷にも出入りしているので、ちょうどアリスが音楽会で演奏を披露してから、同時に衣装と同じ服を、サイズを変えて売るのはどうだ?」
「それはいいですね、それではアリスにはもっと頑張ってもらわないといけないですね。」
「ああ、そうだな。
皆が目標を持って生き生きとしておる。」
父の声は晴れやかに聞こえた。
カミルの一件からおよそひと月。
私たちは、カミルの遺志を胸に、
再起をかけた挑戦へと歩み出した。