告発のメヌエット
第8話 鎮魂
アリスはピアノに向かい、亡き父に語りかけるように呟き、静かに演奏を始めた。
その音色は、いつになく物悲しく響いていた。
「この曲は?」
「ゴールドベルク変奏曲のアリア、バッハよ。
学校で先生が弾いてくださったの。
トーマスにお願いしたら、楽譜を持ってきてくれたの。」
「そうなのね。お父様も聞いてくださっているかしら?」
「ええ、演奏する前にちゃんとお祈りしたから。」
「きっと聞いてくれているわ。
このピアノの音が、お父様の元へ届きますように。」
「ねぇお母様、私ピアニストになりたい。
お父様が下さったピアノで一生懸命練習して、演奏者になりたいの。
貴族のお屋敷の、サロンパーティーで演奏するのよ。
これはお父様に話した私の夢なの。」
「そうだったのね、だからピアノを注文していたのね。
わかったわ。ピアノの家庭教師をお願いするから、演奏者になれるように頑張るのよ。」
「お母様、うれしい。私、演奏者になってもいいのね。」
「お父様との約束だったのでしょう?
それならお父様のためにもその夢を叶えて差し上げなければね。」
そう言ってアリスの肩を抱くと、アリスの頬には涙が伝っていた。
「そうと決まればいつまでもめそめそしていられないわね。」
ハンカチでアリスの頬をそっと拭う。
「ええ、練習よ。メヌエットも両手で半分くらいは弾けるようになったのだから。
いつかおじいさまとも一緒に演奏するのよ。」
「それはおじいさまも喜んでくださるわ。
おばあさまが亡くなってからは一緒に演奏する相手がいなくなって、寂しそうでしたから。」
「それじゃあ、おばあさまのピアノもあるの?」
「それがね、もう弾ける人はいないだろうからって、おじいさまが寄付しちゃったのよ。
『子供たちに音楽を学ぶ機会を』って言って、学校へ。」
「平民の学校にピアノがあるなんてすごいわ……。
本当に寄付したの?」
アリスは目を丸くして言った。
「でもね、音楽の先生は平民の学校にはなかなか来て下さらないのよ。
時々演奏者が演奏を聞かせてくれているとは聞いたけど。」
「それなら、私が頑張ってみんなに演奏を聴いてもらう。
おばあさまも喜んでくれるでしょう?」
「ええそうね。それならもっと練習しないとね。」
私はアリスがこの子なりに父親の死を受け止め、前向きに考えていることがうれしかった。
カイルはカミルが贈った百科事典を夢中で読んでいる。
そこには挿絵とともに名前、読みやすい解説がついたものだった。
いつまでも泣かれると思っていたので、子どもたちの姿を見て、ほっとした。
夕食の後、お父様から子供たちの様子について聞かれたので、先ほどの二人の様子を話した。
「そうか、アリスは演奏者になりたいと。
ただ、音楽家は男性が多い世界だからな、アリスが受け入れられるかどうか。」
「あら、貴族の学校の音楽の先生は女性でしたわよ。
アリスもその先生にあこがれていたもの。」
「そうだな、教師も女性が活躍するようになったからな。
平民にも教育を広めるために学校が増えたから、教師も人手不足なのだろう。」
「アリスが大人になるまでに、女性も音楽家として活躍する世の中になってほしいわね。」
「いいや、案外行けるかもしれないぞ。
女性ならではの演奏として、今までとは違った解釈で、繊細さや優美さなど生かした演奏に仕上げれば、それはそれでいいかもしれない。」
「そうね、何も音楽堂で演奏をするわけではないのだから、サロンや小さな演奏会で演奏できれば、それで身を立てることもできるわね。」
「ああ、そうだな。
演奏者として新しい活躍ができるのかもしれないな。
そうと決まればさっそく先生をお願いしなくては。」
そう言って呼び鈴を鳴らす。
「お呼びでしょうか?」
「アリスにピアノの家庭教師を付けようと思って、適した人材を探してもらえないだろうか。
そうだな、あまり行儀のよい音楽をするよりも、音楽を楽しめるように教えてくれる先生がいいな。」
「はい、承りました。」と言ってトーマスは退室した。
「ところでカイルの様子はどうだ?
泣いてはいないか?」
「それが、カミルが贈った百科事典を夢中になって読んでいまして、まだあの子には人の死がどういうものか、理解が難しいのではないでしょうか。」
「そうだな、今はまだそっとしておいてあげよう。」
私もまだカミルの死を受け入れることはできていないのだけれども、お父様の気遣いや、子どもたちの前向きな姿勢が私の心を癒してくれた。
私室に戻ると、アリスはまだピアノに向き合っていた。
カイルはソファーで百科事典を抱えて眠っていた。
「アリス、そろそろ眠らないとね。
練習なら明日もできるでしょう。」
「はい、お母様。ピアノを弾いているとね、なんだかお父様とお話をしているようなの。
だから楽しくて。」
公務に忙殺された生活でも、少しでも時間があれば、こうして子供たちと触れ合っていたのだな。
「ピアノは明日もここにあって、アリスとまたお話をしてくれるわよ。」
そう言ってアリスに眠るように促した。
私はアリスにお休みのキスをして、私もベッドに入った。
窓から注ぐ月光が、静かに秋の訪れを告げていた。