年下社長と秘密のシングルマザー

1・年下社長と秘密の共有

 朝の街を駆け抜けるように、自転車を必死にこぐ。
 後ろの座席には、三歳の息子の(ゆず)がちょこんと座って、楽しそうに足をぶらぶらさせている。
 私は額の汗を拭う余裕もなく、信号が変わる前にと必死にペダルを踏み込む。
 
「ママ、はやーい!」
「はいはい、もう少しで保育園だからね」

 スーツ姿で自転車をこぐ自分の姿が、ガラス張りのビルに映る。
 ちぐはぐで少し情けない。でもこれが、今の私の戦い方だ。

 保育園の玄関に着いたとき、柚が声をあげる。
 
「ケンタくん、おはよう!」

 ちょうど登園してきた隣のクラスの子に挨拶する。傍にはその父親の田辺さんがいた。
 私は「おはようございます」と一言添えて、ぺこりと頭を下げる。
 田辺さんも軽く会釈を返してくれた。
 
 柚が上靴を履いたのを確認すると、その小さな手をぎゅっと握る。
 
「柚、お迎え、ちょっと遅くなるかもしれないけど、先生の言うことよく聞いてね」
「うん!」
 
 柚は、まだ舌足らずな返事をして元気にうなずく。
 愛しい我が子を前に、私は口元だけで笑みをつくった。
 その背中が見えなくなった瞬間、表情を引き締め保育園をあとにする。

 *
 
 保育園の最寄りの駅の駐輪場に自転車を停め、そこから電車で数駅。
 私が勤務する『タカツキクリエイト株式会社』のビルに入る。
 デスクでパソコンを立ち上げ今日のスケジュールを確認していると、ポケットのスマートフォンが震えた。画面を見て、心臓が嫌な音を立てる。保育園からの着信だ。
 こっそりと廊下に出て、通話を受ける。
 
「──はい、村瀬です」
『柚くんのお母さん、すみません……。柚くんが三十八度のお熱を出してしまって……。今は元気ですが、このまま園で過ごすのは難しいと思うので、できるだけ早めにお迎えお願いできますか?』
 
 嫌な予感というものは、どうしてこうも当たってしまうのだろう。
 いつもは優しい担任の先生の声が、無情に聞こえる。
 頭がくらりとして、こめかみを押さえる。朝はあんなに元気だったのに。
 よりによって今日は大事なプレゼンの会議だ。

 ──子持ちは早く帰れていいわよね〜。

 前の職場で、何度そんな陰口を言われたことか。
 
(二度とあんな思いはしたくない)

 私はいわゆるシングルマザーだ。数年前に夫と死別し、まだ赤子とも言える息子を抱えて懸命に働いてきた。頼れる親族もいなくて、一人で頑張るしかなかった。
 それでも息子の笑顔に救われる日があるから、なんとかここまで来られたのだと思う。
 だけど前の職場では、それを理解されることはなかった。
 熱を出した息子を迎えに行くたび、上司や同僚の冷たい視線にさらされ、肩身の狭い思いをした。思い切って時短勤務を申請したときには「これ以上は会社としても迷惑だ」と告げられ、結局、退職を余儀なくされた。
 
 その後の転職活動も簡単ではなかった。
 
「小さなお子さんがいると大変でしょう」
「急に休まれては困りますから」

 面接のたびに遠回しに断られた。まだ小さな子どもを抱える『母親』が職を得ることは、それほど難しい現実だった。
 そんなことがあって、今の会社には子どもがいることを隠して入社した。配属された企画部でも、同じような境遇の人がいなくて、言い出せるはずもなかった。
 
 どうしようか悩んでいると、同じ部署の先輩に声をかけられる。
 
「村瀬さん、会議室、そろそろ準備お願いね」
「は、はい」
 
 慌てて返事をするけれど、手は震えていた。
 どうしよう。どうすれば……。
 頭の中でぐるぐると考えを巡らせていると、ぐらりと視界が揺れた。

(──あ、これ、まずいやつかも……)
 
 そう思った瞬間、頭に血がのぼるような感覚になり、目の前が真っ暗になった。
 


 ──気づけば、柔らかい布団の感触に包まれていた。
 見慣れない天井。ここが会社の医務室だと気づくのに少し時間がかかった。
 
「気がついたか」
 
 声の方を向くと、社長である高槻(たかつき)(れい)が椅子に腰掛けていた。
 二十八歳という年齢で父親の後を継ぎ、会社を率いる二代目社長だ。
 長身に仕立てのいいスーツをまとい、涼やかな切れ長の目元は冷たくも端正で、雑誌にでも載っていそうな完璧な外見。
 仕事ぶりは厳しいけれど、その公平さゆえに社員からの信頼は厚い──そんな人物が、なぜか目の前にいる。
 
「……しゃ、社長……?」
 
 体を起こそうとしたが、社長に軽く肩を押さえられる。

「無理するな。貧血だろう。しばらく休め」
 
 再び横になろうとしたとき、彼が手にしているものに気づく。
 私のスマートフォンだった。またも嫌な予感がして、サッと血の気が引いた。
 
「君が倒れたから、身内の方に連絡しようとして……。すまないが、見させてもらった。……保育園からの着信が何件もあるな」
「……っ!」
 
 慌ててスマホを取り上げ、深く頭を下げた。
 
「す、すみません! でも、お願いです……クビにだけはしないでください!」
「クビ?」
 
 社長が眉を上げる。

「就職難で……子どもがいることは周りには言ってないんです。前の会社で嫌な思いをしたので……。どうか、お願いします!」
 
 声が震えた。恥も外聞もなかった。子どもを守るためなら、プライドなんてどうでもよかった。
 高槻社長は首の後ろに手を当てて考え込み、やがてふっと微笑む。
 
「なるほど……。じゃあ、これは俺と君だけの秘密というわけだ」
「──え?」
「人事と総務以外、誰も知らないんだろう? 心配するな、口外するつもりはない」
「……社長……」

 あまりにあっさりとした口調に、ほっと胸を撫で下ろす。
 知られたのが社長で良かった……と思ったのも束の間。
 社長は、「ただし」と付け加えた。

「村瀬佳織さん」
 
 事務的に呼ばれたフルネーム。
 なのに、社長の心地いい波長の声で言われると、まるで共鳴するようにドキッと心臓が波打つ。
 
「君には……俺の秘書になってもらう」
「……えっ?」

 突拍子もない言葉に、一瞬、頭の中が真っ白になる。
 入社して一ヶ月──窓の外では、新緑の葉がそよぐたびに若葉の香りを運び、心に小さなさざ波を立てるように揺れていた。
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