温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛
「相手は……会社の先輩だったんです」
 波瑠はどこか淡々とした声音で続けた。
「今でも理由はよくわかりません。ただ、『君とは結婚できない』って……そう言われて」

 目を伏せ、かすかに肩を揺らす。
「婚約といっても、二人だけの間のことでしたし、同棲していたわけでもなかったので。別れるのは簡単でした」

 そこまで話すと、波瑠は苦笑をこぼした。
「自分でも驚くほど、あっさり納得してしまって。……今思えば、私のそういうところが、結婚できなかった理由だったのかもしれないですね。今更言っても、どうしようもないですけど」

 その笑みに、圭吾の胸がざわりと騒ぐ。
諦めを含んだ女の微笑み。彼女がそんな表情をすること自体が、耐えられなかった。
二度とこんな顔をさせたくない。
強い衝動が、彼の奥底で静かに熱を帯びる。

「えっと……次は何でしたっけ? あ、育った町でしたね」
 波瑠は少し照れたように笑い、言葉を継いだ。
「田舎の小さな町です。海のそばで育ちました。海辺が遊び場だったの。波の音がして、潮の匂いがして……太陽と月があって。何にもないけれど、欲しいものは全部そこにあるような気がして」

 その横顔は、まるで今まさに潮風に吹かれているかのように、穏やかだった。
圭吾は息をひそめ、その表情に見入る。

「……そうか」
穏やかに相槌を打ちながらも、胸の奥では別の言葉が渦巻く。

美しいな。

海辺の景色を語っているはずなのに、彼の目に映るのは、ただ波瑠その人。
潮風の匂いよりも、波の音よりも、彼女の微笑が心を満たしていく。

「えっと、次は……好きなものでしたね」
 波瑠は首をかしげ、少し考えるように視線を上げた。
「好きなものかあ……うーん、何だろう? 読書。散歩。食べること」
 小さく笑って、肩をすくめる。
「平凡すぎて、つまらないですよね」

 けれど、その表情はどこか愛らしく、圭吾の目には新鮮に映る。
「美術館へ行ったり、たまに観劇するのも好きですね。……こんな感じです」
 言い終えてから、はにかむように続けた。
「圭吾さんの質問には……ちゃんと答えられているのか、わかりませんが」

 圭吾は静かに首を振った。

「どんなジャンルを読むんだ? 好きな作家は?」
圭吾の問いに、波瑠は少し目を輝かせた。

「結構、どんなジャンルでも読みますね。書店に行くのが大好きなんです」
 自然と声が弾む。
「ふと目について“いいな”って思ったり、ポップを読んで興味がわいた作品を手に取ったり……適当なんですけど、そんなふうに選ぶのが好きで」

 その笑顔は、本を語る彼女の無邪気さを映し出す。
圭吾は、黙ってその表情を見つめた。
楽しそうだな。
まるで本よりも彼女自身が、物語の主人公のように思えてしまう。
「好きな作家は……江國香織、村上龍」
 少し照れたように、けれど迷いなく名前を挙げる。
「外国の作家だと、サマセット・モームやジェーン・オースティンかなあ」

 圭吾は黙って聞いていた。
波瑠が並べた名に、思わず口元が緩む。
柔らかな感性と、時に鋭く現実をえぐるもの。甘やかさと痛烈さ。その両方を抱きしめてきた女。そう思わせる響きだった。

「……なるほど」
相槌を打ちながら、圭吾の胸にはまた熱が広がる。

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