下町育ちのお針子は竜の王に愛される〜戴冠式と光の刺繍〜
* * *
【戴冠式まで、あと4日】
「花の手配は終わっていますか?現時点で不足しているものをリストにして回してください。可能なら今夜中に補填の段取りも」
戴冠式と祝賀会に向け、アベルは最終チェックを行なっていた。
「遅れが出ている部門は、すぐに報告を」
従者が頷くと、アベルはすぐに次の部署へと移動する。歩調は乱れず、速い。
ふと、廊下の窓越しに見えた中庭の光景に足が止まった。祝賀会の会場装飾が着々と進められており、花材が積まれ、職人たちが手際よく作業を進めている。
(……なんとか、形にはなりそうだ)
アベルは張りつめていた肩の力が少しだけ緩むのを感じた。
「気を抜くのは、式が終わってからにしましょうか」
誰に言うでもなく、小さくつぶやいたその声は、すぐに足音に紛れて消えていった。
────────
日々の業務に加えて、祝賀会に向けた給仕の練習も繰り返してきた成果が、ようやく形になり始めていた。初歩的なミスもこの数日は見られない。そのことにオリビアは内心安堵していた。
それでも、メイドたちの顔にはまだ固さが残っている。このままでは、とてもじゃないが各国の来賓を迎える完璧な状態ではない。
オリビアは周囲を見回して言った。
「……ここまできちんと仕上げてきたのは、貴方たちの努力の賜物です。あとは笑顔だけ。日は、堂々と笑顔で乗り切りましょう」
その言葉とともに、オリビアはふっと微笑んだ。
滅多に笑顔を見せることのない彼女がふとほころばせた表情に、メイドたちは思わず見惚れた。笑ったオリビアは、特に目元が優しくなるのが印象的だった。
「さあ、本番に向けて気を抜かないで」
オリビアが、ぱん、と手を叩くと、メイドたちははっと我に返り、再び作業に取りかかった。メイドたちの表情は先ほどよりも柔らかい。
(これだけ頑張ったんだもの。あとは自信を持ってやってもらうだけよ)
そう思いながら、オリビアはそっと彼女たちを見守っていた。
────────
「あーあー、毎日こき使いやがって……」
ぶつぶつと文句を垂れながら、怪盗ジェド────もとい、ネフィリスは、窓から王宮で与えられた部屋に入った。
テーブルの上には、昨日仕上げたばかりのメイク用の粉と液体が置かれている。調合は完璧、色も申し分ない。けれど、それを見てなお、彼の苛立ちは収まらなかった。
(思いっきり窓から全部ぶちまけて、当日も行方くらましてやろうか……)
そんな考えが一瞬よぎる。けれど、すぐに却下した。くだらない衝動に任せるほど子どもではない。
ネフィリスは、誰かの命令で動くのが大嫌いだった。
だからこそ、これまではすべて独力で調べ、判断し、行動してきた。
提供された情報を鵜呑みにしたことはないし、それを盲信することもない。
自分の目で確かめ、腹の底から納得して初めて、一歩を踏み出す。
それが怪盗ジェドの流儀だった。
……今は、そのリズムが狂っている。慣れない歯車の中で動かされている感じが、どうにも性に合わなかった。
(まあ……いつだって逃げようと思えば逃げられるしな)
他国に行ったっていい。誰の命令も届かない場所へ。その自由を今も手放したつもりはない。
窓辺に視線を向けると、遠くの空に月がのぼっていた。ほんのり光るその光を見つめながら、ネフィリスは静かに息を吐いた。
(……ただ、今はまだ、この国にいてもいいかなって。そう思ってるだけだ)